首根っこはつかんだ。だが持ち上げるまでには至らない。
猫の首根っこではなく、今書いている医師像である。なかなか「食いつきやすい」部分が多くなく、どこをつかんで、どう構成を回すか、まだ模索している。没頭して考えて、資料の行間まで読んでゆくと、だんだん浮かび上がってきた。最初に思った印象は間違っていないようであるし、人物像の仮説も概ね正しそうだ。小さな光にもっと酸素を送り込んで書いてゆきたい。
というのもここ数人、「書きやすい人」が続いたのだ。話題があり、個性的で、著名な業績があったり、笑いと泣きのエピソードがある…そういうものの取捨選択、再構成で、オリジナリティをひょいっとフリかけて、出来上がり。そんな甘えがあったかもしれない。
そこで気づいた。「書きやすい人は単に書きやすいだけかもしれない」
書きにくい人も、実は書きやすい人と同等かそれ以上の価値があり、思いがあり、人間性があるのかもしれない。ただ「とっかかりが少ない」せいで「誰も書いていない」ために「取り上げにくい」。あるいは本人が「説明下手」か、「あえて表に出ない」という信条の人もいる。
Facebookなぞを見れば自己表現が上手い人で満ちあふれている(^^;)針小棒大に書ける人がうじゃうじゃ。そういう人はさらに書かれてさらに記事が多くなる。一方、書かれないが価値のある人は埋もれっぱなしになる。
もちろん、書かれるのはそれなりにワケがある。そんなことはライターのはしくれとしてよくわかっている。そんなことじゃなく、書かれない人/書かれないものを書くというのも、書き手の重要な務めだと言いたい。書きやすい人やモノばかり追いかけるのではアカン。書かれない人やものを書くという目こそ持つべきなのだ。
ぼくのごときチョロいライターの拙文はさておき、日本政府や防衛省が隠蔽していた南スーダンの戦闘という事実は、書かれるべきものである。書かれにくいものを書くこともまた書き手の使命である。
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