信じることはむつかしい。どうもそれは〝in〟があるかどうかのような気がする。
数学という学問は〝証明〟という手続きを経て「これが正しい」と宣言をする。さらに自然科学は〝実証〟という手続きを経て「逆らいようのない真実」を突きつける。それは人びとの「共通了解」を広げることだ、と養老孟司氏は『バカの壁』に書いている。
それはわかるが、ぼくは「信じる」という心理や行動は一筋縄でゆかないと思うのだ。
まず「絶対的な真実」なぞ存在しない。自然科学ではその時点で「信じておこう」という科学者同士のお墨付きである。人文科学では実例や主張を積み上げて「信じなさい」というプレゼンテーションであり、日常生活では「そこまで言うなら(信じるか)」という駆け引きになる。
「信じる」にもタイプが色々ある。親子代々同じものを信じて来た伝承または空気のような「信じる」もあれば、否定したい過去が根底にあり、ゆえに「未来を信じたい」という逃避もある。
信じることはむつかしい。そこで〝in〟がカギを握ると思う。
英語でbelieveは「それがほんとうかどうか判断する」という意味である。I believe what you are saying.は「あなたの言うことをほんとうだと考える」という意味である。
一方、Do I believe in myself?「自分を信じられるか?」、Do you believe in God?「神の存在を信じますか?」のbelieve in は「存在や力を信じる」という意味である。in つまり「ーの中へ」があると、信じる対象や方向ー自分や人や神が見えてくる。
つまり「信じる」は「判断」ではなく「方向」である。それが信じる力を生み、大きくするのではないか。なんとなくうなづけるが、ではこれはどうか。
誰かを助けるために、信じるものを裏切ることは「信じていない」となるのだろうか?それともより強く信じることなのだろうか?
逆説的だが、疑うことがあるから信じることができる。信じるとはジグザグなのではないだろうか。
愛することがジグザグで強くなるように…
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