『シューマンの指』という才能

『シューマンの指』のテーマは「才能」である。一度だけ、つんざくような光を帯びてー

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奥泉光氏の書き下ろし小説『シューマンの指』(2010年刊行)をピノ子(猫)の邪魔をかいくぐって読了した。主題の上に主題を重ね、虚構の上に虚構を重ねるこの物語を要約し、感想を言うのは容易ではない。ぼくは本書を「才能をめぐる物語」として読んだ。

音楽活動もするという奥泉氏の音楽への造詣の深さには驚嘆させられた。いやその知識ではなく、音楽を通じた人物造形の凄さにである。病気で演奏活動をやめたピアニストを母にもつ永嶺修人が、本書を貫く音楽、シューマンの調べと共に描かれてゆく。

「シューマンが求めているのは、本当に、本気で、可能な限り速く弾くことなだから」
「(コーダは)弾けなくていいんだ。シューマンは限界を超えることを求めているんだ」

彼は鍵盤を高い位置から弾き、シューマンの楽譜に配された言葉まで表現する早熟の天才ピアニストである。本書の語り部である里橋優は、二学年下の修人と音楽室や下校途中で語り合う。修人は繰り返し言う。

「音楽はすでにここにあり、わざわざ演奏される必要はないんだ」

優はこの意味を訝しむ。ではピアニストは何をするのだ?彼は才能ある修人を崇めて、自分もピアノで音大を目指すのだが、自身の才能の乏しさも見切っている。だが将来を嘱望され、著名なピアノ教師に付いている修人は、奇妙なことにコンサートでは、その才能が響かなかった。優にはそう聴こえた。演奏後、優は修人にこう告げる。

「君の演奏には音楽がなかった」

君はちゃんと弾いていないーでは彼が「すでにある」と言った音楽は、どこにあるのだろうか?才能とは譜面にあることを自分のものにすることなのか?では才能とは何なのか?芸術とは何なのか?

「すでにある音楽」を超える演奏は、一度あった。あの夜、学校の音楽室で、修人がある行為をしたあとの演奏である。真のシューマンを弾かせたのはその時の<激情>から。命と音楽を交換して悪魔になった瞬間に生まれた。

一方〝凡人〟である優はこう考える。音楽とは何かを「表現」するものだと考えずに、音楽に奉仕すること。一歩でも音楽に近づき、美しい裳裾(もすそ)に触れること。音楽に向かって進んでゆけばいいと。

才能とはそのどちらかではなく、どちらもあるのだと思う。作文に悩む身として素晴らしい作品に出会えた。しかし奥泉教授、ここまでどんでんどんでんと、ひっくり返すこともなかったような気もします…(笑)

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