混乱と呼ぶか自然と呼ぶか、それが問題だ。モーツァルトはそれこそ人間と呼んだのではないだろうか。
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しばらく前のことだが、あるミニオペラを観て気になった。二組の男女がそれぞれ違う旋律で歌っていたのだ。違うリズムの曲なのに、なぜか最後ではピタリと終わった。おもしろいと思ったが、ぼくはクラシックに素養が無い。舞台の後で詳しい人に訊いてみると「それはモーツァルトがやりだした」という。ふぅんと思って年末年始の課題にしていた。少しわかってきたことを書いておきたい。
それは「対位法」で複数の旋律をそれぞれが独立して調和させて重ねてゆくものだ。モーツァルトが発明したわけではないが、大作曲家は交響曲でもオペラでも大いに取り組んだ。とりわけ興味深いのが『ドン•ジョバンニ』である。女たらしが主役のオペラは、喜劇と滑稽とまじめの旋律が重なり合いもつれ合い、演奏家泣かせであるという。今読んでいる本にあるオペラ演出家のコメントがある。
「滑稽な場面と残忍な場面が目まぐるしく入り乱れ、屈託のない喜劇とおどろおどろしい恐怖劇が錯綜しているために、演劇作品として一貫性を持たせるのが実に厄介だ」
舞台の最後でドン•ジョバンニは轟音の音響と共に地獄に落ちてゆく。悲劇である。だが歌い手達は「悪魔は死んだ!」と喜びの歌を歌って、日常生活に戻ってゆくところで幕が降りる。この舞台の混乱は天才ならではの直感の創造なのか、それとも計算づくなのか。
ちゃんとした答えを出すには、1954年のヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮の録音でもじっくり聴いて出すべきだが、とりあえずぼくが思ったのはこういうことだ。
人生には滑稽もあり、恐怖もあり、笑いもあり、復讐も笑顔もある。それが自然なのだ。人間も人生はしょせんフィクションであり、それをリアリズムとも言う。人間という全存在をオペラや交響曲で描いたモーツァルトはだから偉大なのだ。
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最後に、ぼくがなぜこんなことにこだわっているかというと、もちろん作文創作上のヒントがあると思ったからだ。すぐに思いついたのは〝群像劇〟という手法である。いろんな人びとが登場して、どこかでつながって物語になる。だがそれじゃあないのだ…と、そこまで考えて、
あ、これだ!
と思った。言葉が降りて来た。遂に書くべきこと、構成、人物、オチが一気に見えた。どうもありがとうモーツァルト!
カレーよ、お前もどうもありがとう!
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