人を書け、物語は後だ。

まだぼくは何もできていない。やるべきことはまだいっぱいある。

文章修行のことである。ここ数日、自分の文のことを考えている。何が悪いのか、悪いならどうすればいいのか、あるいは悪くないのか、これが自分の個性なのか。堂々巡りをしていた。ある文に出会って「あっ」とわかった。

物語が先にあるのではなく、登場人物が先になければならない。

なるほど…登場人物がもつ思想や性格や個性があるから、物語がある。いや物語を超えて、登場人物が読者の心の中に入り込んでくる。それでなければ物語にはならない。絵空事であり「ごっこ」である。

思いつく古典の主人公を見れば一目瞭然である。

たとえば一人称の物語、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン•コールフィールドは、学校嫌いで潔癖でインチキが嫌いで純粋である。あの口語体で性格も個性もすごく描かれている。司馬遼太郎の『坂の上の雲』の秋山兄弟は三人称の物語である。性格も個性も能力も目に映る。しかも戦時の動乱付きである。メリメの『カルメン』も女を追わざるをえないドン•ホセの切なさと純情さが余すところなく描かれている。カルメンの自由な妖しさは言うまでもない。イプセンの戯曲『ペールギュント』も、親不孝で婚約破棄で自由気ままなペールを舞台劇で表現している。

つまりぼくは「人を書かなければならない」という至極単純なことができていなかった。物語ばかり構築してハメこんでいた。なんたることだ。

『ドクターの肖像』では人をどう描くか、業績を書くな、言葉を追うな、その人を表すエピソードや周りの人から描けと、いつも悩んできたというのに、創作修行ではすっかりそれが抜けていた。

どんな人称でも書くことは同じ。物語の檻から飛び出す普遍的な人物を描け。これからがんばります。

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大根とお肉の煮物が美味しゅうございました…。

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