書かないところで書いてから書くもの、それはー

文の中日みたいな日になった。

明け方、思いついた言葉を書きにベッドから這い出て机で紙片を取った。「タイトル」らしき一行と、構造の展開図を書いた。

一本、ドクターの肖像の原稿が終わって、対象の先生から少し褒め言葉を頂いてほっとした。もう一本、心療内科医師の文は終わってはいないのだが、一定の書き終えた感に包まれている。次の取材まで2週間ある。創作修行の良いチャンスである。修行の坂を登る文がある。いったん完成させて自主的にオクラ入りさせたものである。

それを書きなおそうと思った一つ目の理由は、その架空話には心療内科医師が出てくるのだ。偶然の一致である。心療内科の文の件が来る前に書いていた。両者は性別も年齢も立場も違うし、架空話の主人公は<わたし>であるから、輪郭が似ているだけと言っていい。だがこの出会いと一年に渡った文の作業は、ぼくへの「書きなおしなさい」というお告げにも思える。

二つ目の理由は作家丸山健二である。

彼の文が気になって、秘密を暴いてみたくなった。読書中の『安曇野の白い庭』のある章を手書きで筆写した。自分流の分析術である。すると、段落の使い方に妙がある。段落の中に小さな物語があり、その物語が次の段落に移り、やがて全体の段落がぐるりとつながる。彼の文の上手さ、真剣さの一端がわかった。明日、もう少し深堀してみたい。別のところに彼のこういう言葉もある。

文章の恐ろしさは、真剣に書けば書くほど当人の性根がそっくり出てしまい、隠しおおせない点にある。よしんば駄目な人間を描くにしても、駄目な人間であっては描けないのだ。このことをくれぐれも忘れないでほしい。

ぼくは駄目なまま書こうとしていた。だから駄目だったのだ。駄目でなくなったとは言えないがトンネルはひとつふたつ抜けた。そして、理由はもうひとつある。ぼくは“心の救済物語”を書きたい。自己満足ではなく誰かの役に立つ文の芸を極めたいのだ。それをある人の行動から触発されて思い出した。

このように、文というのは「書かないところで書いてから書く」ものである。

img_0297満ちてゆけ。

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