正しいことを言っているけれど、どこかうっとおしくて敬遠してきたのが丸山健二である。
彼いわく、文壇は阿呆ばかり、出版社は高い給与の人ばかり、それを支えるために低劣なものを出し続けて出版市場が枯渇しようとしている。だが質の良い文学は消えたわけではなく、彼らに消されているに過ぎない。ちゃんと育ててやれば芽は出るのだーという。正しいけれど「文に命を捧げる」ってどこか暑苦しい。安曇野に引っ込んだ作家を敬遠してきた。
ところがひょんなことから読んでみようと思って、図書館から一冊借りてきた。すると、最初から孤高を目指して引っ込んだわけではなかった。
エッセイ『安曇野の白い庭』によれば、文学賞は取ったが売れず、お金に窮して長野に流れたという。祖父の遺した450坪の荒れた土地を開墾して住みだしたのだ。小さな家を建て、庭の周りに木を植えた。だが思うように育たない。農薬の問題、木々の種類の問題など色々あるが、遂に根っこの問題に突き当たった。
庭と小説との大きな差がそこにある。小説ならほぼイメージ通りその世界を造ることが可能なのだが、庭はそうは行かない。理由は、樹木が生き物だからだ。(P34)
現実は意のままにならない、文壇に代表される人間世界がそうである。庭と森が違うのは、森は何世代もかけて淘汰を繰り返し、そこに適した植物だけで成立している。一方造園の美は人間が手をかけてようやく維持される。
そこで文に命を捧げるこの作家へのオマージュである。
森のごとく100年続く文がある。淘汰されて枯れてゆく文もある。根無しの文、一度きり咲く文もあれば、球根のように力を宿す文もある。多年草もあれば一年一年と年輪を重ねて図太くなる大木のような文もある。庭で育てられる行儀の良い“囲われた書き手”も入れば、森や山で自分らしく“自生する書き手”もいる。前者は儲かり、後者はさっぱり…かどうかはわからない。どちらかを取る選択肢でもない気もするが、ただ生まれたからには、森に1本「文の木」を植えてみたいと思うのだ。
文に光をー
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