ノーベル文学賞が意味するもの

内側から出てくるものがある人が受賞してきた。外側で書くーつまり売ることが主である人は受賞できない。それがノーベル文学賞である。

人間の底にあるものを描けること、ただ描いただけでなく、そこに救済もしくは絶望をもたらせた作品を複数出した人が受賞してきた。

時代の雰囲気だけを書いたのではノーベル賞は取れない。わかりやすくいうとユーミンの曲がそれである。いやほとんど99%の歌手は外側にいる。時代の共感性を切り取ってマーケティングを付けて売る「外側」の活動である。

では日本の芥川賞や直木賞はどうだろうか。

芥川賞にはドスンとくる作品はある。ただこの賞は伝統的に「新しいスタイル」を重視する。題材、切り口、表現ー目新しい何かをセンセーショナルに描く。とりわけ過去30年その傾向が強くなった。ぼくは森敦の「月山」(1974年)が最後の「内側からの文芸」だったような気がする。

一方直木賞は逆に、今ある文芸スタイルをしゃぶりつくして、上手に物語にした作品が受賞する。いわば文の職人芸である。日本の重賞ふたつは「内と外」というより「新奇性と職人芸」と表現するのが正しい。そして芥川賞も直木賞のどちらも外側重視の「売るための賞」である。特に出版不況の近年は痛々しいほどだ…仕方ないけれど。

さてボブ•ディランの受賞はどうなのか。

彼は内も外も両方ある。ボブ•ディランは若者の言葉を音楽業界が出版し、代弁する仕組みが作られた1960年代からレコードを出し、コンサート場を抜け出て、社会まで到達した。素晴らしい詩、メッセージ、そしてリフとメロディを付けて。彼の詩を読めば受賞は当然だし、ジョン•レノンが生きていれば当然受賞しただろう。ノーベル賞の受賞ジャンルは小説だけでなく、詩も評論も戯曲も哲学論もある。歌が無かったのが不思議なくらいだ。

“反抗の詩人”のディランは受賞を拒否するのか。わからないが、ノーベル賞をもらっても決して体制に迎合したことにはならない。むしろカウンターカルチャーが大人の世界を飲み込んだ記念すべき出来事として長く記憶されるはずだ。

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猫のピノ子が看病してくれて、疲労から少しずつ回復してきた。

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