ちゃんと歩道橋を渡りますか?それとも下を走っちゃいますか?
これは初夏に日本橋の外れで撮った工事風景である。歩行者に負担をかける歩道橋、近年は撤去が続いている。聞くところでは東京湾岸に「歩道橋の墓場」があった。撤去した歩道橋を破砕処理するまでの一時保管らしく、ずらりと並んだ長い残骸が壮観だったそうだ。
足腰の弱いお年寄りにたいへんなのはもちろん、妊婦や子連れ、目の見えない人など、道路の弱者をなお弱者にするこの立体構築物は、経済成長主義の歪みそのものだった。
それに誰も異を唱えることなく、学校では「歩道橋を渡りましょう」と教えて、歩道橋の下を「インチキ」しないように、PTAが旗を持って見張っていたものだ。それが正しい時代があった。
だが歩道橋は面倒である。ぼくは渡らずよく下を「インチキ」した。
実家のそばにも相当長い歩道橋があった。片側6車線、もう片側は4車線くらいあった。そこをまたぐ歩道橋を上るが面倒だった。ぼくだけでなく多くの人が歩道橋の下を、信号の変わり目に渡っていた。やがて人の獣道になり、ようやく気づいた警察?が横断歩道をつくった。以来、その歩道橋を渡る人は激減したのは言うまでもない。
なぜならインチキではなくて正当だからだ。クルマの方が地球にムリをかけているのである。
歩道橋には考えさせられる要素が多い。
渡らないといけないと教えられると、窮屈な性格になりそうだ。弱い者に気づけなくなりそうだ。何がほんとうの合理なのかわからなくなりそうだ。さらに、いったんつくった構築物はなかなか壊せない現実がある。
前の職場の神田須田町2丁目と東浅草を結ぶ昭和通りの上に歩道橋がある。片側3車線ずつだら相当長い。だが下を走るクルマの振動でぐらぐらする。いつ崩壊するとも限らない。
この世のほとんどの常識なぞ歩道橋みたいなものである。崩せば真実がわかる。
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