あつみけさんはイラストレーターである。母の背を見て育つちびさんは、絵を書くのが好きになった。うまくなった。一番いいのは「楽しんで描いている」ことだ。
どこにでもありそうな光景であるけれど、実は多くない。親の背中を見て「スクスク」育つ子供は現実には多くない。
政治家、医者、俳優、教員など「親の背中が見やすい」と親が子にその仕事を願い、子も親の仕事を継ぐのに「表面上は」抵抗がない。逆に親の道なんか歩むものかと思うのは、背中が見えない公務員やサラリーマンが多そうだ。
「親が背中を見せる。子はそれを追う。そして追い抜く」
これは良い影響であるが、リスクは「追い抜けなかった」時である。父や母が偉大であればあるほど追い抜けない。途中でコースを変えればいいのだが…
「親が背中を見せる。親は自分の背中を追ってと願う。だが子は曲がる」
問題は、親ができなかったことを子に負わすこと。子ではなく親が主語になることだ。例えば学歴である。自分が行けなかったから子は大学にーそれが嵩じて学習を詰め込み、子は勉強ができなくなり引きこもる。
「親のコンプレックスを子で晴らす」
わが家にもあった。妻は子を自由保育の幼稚園に通わせた。何が自由なもんかとぼくは思ったが黙っていた。引っ越し後もその幼稚園に片道1時間かけて通わせた。あれを止められれば家庭は崩壊しなかった。いやしょせんむりだったか…
我が父はサラリーマンで単身赴任だった。背中どころか姿が見えなかった。仕事の象徴は机に転がっていたサンスケ(図面引き用の定規)くらいだった。だが都内に家を建てたように、父はお金には聡かった。よくこう言っていた。
「お金さえあればどんなことも何とかなる」
ぼくはそれに反発した。しかも父は経済は後付けで、本当は文系だった。読書のインプット量は凄かった。しかしアウトプット(書くこと)はさっぱりだった。青年期が戦争という言い訳はあっても、要するにおそらく挫折があった。
ぼくは今多少の文の仕事はしているが、今のままならこうだ。
「親のコンプレックスを子が上塗りする」
今夜は厳しいことを書いたけれど、あつみけさんの子に学ぼうじゃないか。「楽しく書けばいい」のだ。
すまんねピノ子、今日も仕事ザンマイだった…
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