何ごともこだわれば飛躍できる瞬間がやってくる。
ドクターズマガジン9月号がそろそろ配布される。今号の肖像医師は佐竹修太郎先生(葉山ハートセンター)。心房部の異常信号でドキドキ不整脈や頻拍をするのが心房細動で、年を取ると多くの人が罹る病気である。それをバルーンカテーテルで一発で治す治療器具を、二十年近くかけて発明した。発明家の心はよくわかるので、おもしろく書けたと思う。
この原稿の次のページに『読書の質と飛躍的飛躍』というエッセイがある。神戸大学の感染症内科の岩田先生の、米国での研修医時代の話し。現実逃避をしたくて、こともあろうにプルーストの『失われた時を求めて』を読み出した。世界一長くて退屈な本だ。当然だが読めないわけで、100ページあたりで何度もうろうろして結局閉じた。
ところが10年後、結婚したパートナーが読書家だった。アラン、河合隼雄、内田樹、谷川俊太郎といった世界の本が棚にあった。ガツンと衝撃を受けて読み出したら、読書ができるようになった。カントもヘーゲルもヴィトゲンシュタインも読める。プルーストもついに読破した。読解力の飛躍的リープ(飛躍)が訪れた、という話しである。
ぼくも似た体験があった。ぼくの場合は「本が見える」ようになった。
書き手の苦労、鼓動、跳躍、停滞、微笑み…が見えてきたのだ。行間や単語や構造や句読点から匂ってくる。すべての本で見えるわけじゃないが、たいてい見える。書き手が仲間のように思えて(不遜な点は許し給え)文を(少しは)書けるようになってきた。とはいえぼくの小本棚ではプルーストは相変わらず埃をかむり、『精神分析入門』は途中で断念した形跡がある(笑)
おそらく読書以外の芸でも似たようなことがある。しつこくやっていれば必ずリープができる。高みに立てて違う風景が見える。自分の中の何かが背伸びしている。我々はそのために生きているようなものなのだ。
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