かみさんが(神さまでもオカミサンでもなく名字である)自然風景画像をFacebookにアップしていたが、実はずぅっっっーーーと先の小枝にとまる、ちっちゃな小鳥を写したかったとか。
結構高解像度のレンズなので、まわりの風景をトリムしても、小鳥が綺麗に写っていた。その画像を見て思ったことー
人生もトリミングできたらいいのに。
人生の瞬間瞬間を写すようにぼくらは生きているとしよう。広角レンズのような目で人生を大きく写す人もいれば、接眼レンズのような目で人生をクローズアップする人もいる。要するにどう生きるか、目的を持っていると言っていいい。
だがたいていの人の目は「標準レンズ」である。遠くもまあまあなら、近くもまあまあ写せる。
標準レンズの人生は良いのだろうか。人生というファインダー、けっこう余計なもんが写っている。ここぞと思うときにがんじがらめでズームアップもできない。ついピンぼけになったり。
それならたとえ平凡な画像でもトリミングできればいい。
イヤな体験を切りとってしまえ。不満だった頃を切り取ってしまえ。不本意な成績も、失敗した結婚も切り取ってしまえ。標準レンズでもRAWで写しておけば、切り取って小さな画像になっても、拡大してボケない。その小さなbutフォーカスされた部分で生き直せばいい。
ぼくもそうやって生きてきた。今、もう一度人生をトリミングしたい。絞り直したい。
と思っていたら、もの凄く厳格に自分をトリミングする人がいた。天皇陛下である。今日観た「平成の玉音放送」で、天皇は国家の象徴という役割をトリミングし、自分という存在もトリミングし、まわりに迷惑がかからないように、静かに消えますと話していた。凄い人だ。
人生は時に応じて小さくまた大きく、最後はバッサリとトリミングするべし。
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