わかると恐くなることもある。そこからどう踏み出せるかが問題である。
この夏にまとめたい文が2つ3つあるが、ひとつは心療内科の原稿である。その中でフロイトを系譜とする「自由連想」が出てくる。患者と医師が45度の角度で座り、自由に語る精神科診療。記憶の底にある原因を炙り出す。まさにそんな感じの、とりとめのない会話を医師とした。
まず猫を飼いだした話しをした。すると医師は「野良猫を拾うのは自分の境遇の裏返しです」と言った。続けて「アトピー性皮膚炎」があるというと、医師は「アトピーがある人はすごく気を遣う人」で対人関係が苦手、ストレスと感じる度合いが強いという。
「こんなこと言ったら失礼ですけど、寂しい人が多いです」
図星である。問題はなぜ寂しいか。テープ起こしをしながら、ひとつ、ふたつ、みっつと思い出してきた。
ランドセルと学生鞄、そして学生服。いずれも兄のお下がりだった。とてもイヤだった。高校の弁当も苦痛だった。あまりに手抜きで人に見せられず隠れて食べた。中学に入る年に、家を建て直した。1階と2階の半分は貸し室で、子供部屋は2階、親は3階と4階にいた。インターホンがあり、外階段で上り下りした。みんなバラバラだった。
記憶の鎖がつながって、ぼくの性格形成に影響したことがわかった。
思い出す情景がある。土曜の昼ご飯である。ぼくはリビングでソファに座っている。母はダイニングに座っている。父はいるとしても競馬中継を聞いている。ぼくはひとりでパンをゆっくり食べながら、スポーツ新聞を隅から隅まで読んでいた。対話はない。それがイヤで長期泊まり込みバイトや放浪の旅に出たのかもしれない。
自由連想を体感できたのは収穫だが、ひとつ問題がある。
「自由連想しっぱなしはよくないんです」
と医師は言う。解決策がなくただ宙ぶらりんになってしまうからだ。突破口は「原因となった親を許せる」あるいは「負を断ち切る新しい区切りができる」などであろうが、それを自分ひとりでできるかどうか。定義を言葉で理解するのと、心でわかるのは大違いである。
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