やっぱり女の泣き寝入り社会なのか…
都知事候補の鳥越俊太郎氏の女性スキャンダルで、鳥越氏を責める声よりも逆に訴えた女性(正確には女性の現在の夫)を非難する声もあるという。ははんと思った。
昨日紹介した海妻径子氏著の『ゆらぐ親密圏とフェミニズム』をめくってゆくと、森鴎外の『舞姫』の話しがある。ドイツに留学したエリート官僚の太田が美少女エリスに恋をする。エリスと暮らすために官僚を辞めると故郷の母が悲しんで自害する。一方で太田はエリスを裏切り、発狂させてしまうが、「後ろ髪を引かれつつも」復職して帰国するのである。
著者は、ずたずたにされた女が男にできることは「死をもって知らしめて改悛させる」ことぐらいだと書く。さらに、
日本文学は(男が女を踏みにじった)責任の履行を厳しく要求し、さらには「男たちにその履行を果たさせる責任は女の<男を見極める目>ではなく、社会全体にあるのだ」と訴えてゆく声を持つヒロインをほとんど描いてこなかったのではないだろうか。
しかも文学だけではない。そして保身を図る男だけでもない。女もまた「男を見る目がなかった」と慨嘆するしかない社会をつくることに加担してきた。男性社会には本質的に男性を罰する規定がないのだ。
離婚後の養育費や生活費の支払いを厳重に履行させる仕組みはまだない。形式はある。裁判所は宣誓書も預かる。だが余程のことがない限り財産の差し押さえ命令は下らない。これはぼくも利害があるのでよく調べた。
鳥越氏は本当なら謝ればいい。そして身をもって、償いを厳重にする社会システムを東京都からつくればいい。それが血の通った政策というものだ。そう言えば当選できるかもしれない。
本当の問題は男尊女卑というより、誰かの心の側に立てるかどうか、そのイマジネーションを持てるかどうかである。それを持つには小さな愛情表現を大事にしたい。こんなことがあったな。寒い日にぼくの凍えた手をコートに入れてくれた。彼女にはそれがある。
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