創作とは「世界をつくること」、すなわち「おうち」である。
うーん猫ちゃん、やってくるかなあ。裏のアパートの一室で飼われていた猫が、ストレイキャットになった。つまり彷徨える猫である。先日、ツナギの作業服を着た男性数名がその部屋の外の窓に懐中電灯を当てて、中を見ていたのを目撃した。その部屋の主が蒸発したか、あるいは…
ともかく猫は部屋から出された。ぼくの方のアパートに来て、にゃあにゃあ鳴いていたので、今夜はおうちを用意した。さて、くるのかなあ。
ところで、ある人の舞台を観て思った。
パフォーマンスなんだから技術はもちろん高くあるべし。技術が高いから「伝えられる」。歌なら声量が豊かであるとか、踊りなら手の先、足の先まで演じられるとか。だから伝わるということはある。
だがそれは正しいけれど半分か、それ以下である。技術だけでは心にはけっして残らない。あえていえば空虚でさえある。技術が上手いと引きずられて時間を取られてしまう分、逆に始末に悪いのだ。
適切な表現かわからないけれど、創作とは「あたしのおうちにおいで」なのである。
あたしのおうちとは、1曲3分間、忘我できる瞬間の舞台である。演じる人も観る人も、おうちの中で同じ空気を吸い、同じ音を聴き、同じ気持ちになる。そういうおうちこそ創作である。単なる自己満足の趣味と、人に影響を与えようとする活動を分つものである。
「ドクターの肖像」でも、伝えるべき活動や言葉があるのだけど、そればかり連ねているのではフツーの記事である。もう一段掘り下げて、その人間の生きざまがページという舞台に広がらなければならない。彼または彼女の生きざまが再現されて固唾をのまさなくてはならない。そう書ければ読み飛ばされない文になる。
どんな小説でも、どんな記事でも、あるいは科学論文でも同じ。「読者が入れるおうち」があるかどうか。
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