アートには表現力も技巧もあるけれど…
昭和の日、歌を聴きに行った。音楽をやる知人が出るのだ。音楽をする人は、はた目に見えなくても何気に多いものだ。
のっけから余談だが、先週事業清算した三和印刷の印刷場をふと覗いた。すると部長が座っていた。片付けで来ている。「終わりましたね」と言って断裁機を見ると、黒いケースがあり、その上に金管楽器がのっていた。
「トロンボーン?」
「フリューゲルホルンていうの」
「部長、ブラバンやってたんですか?」
「中学、高校とね」
と言いつつ、そのホルンを買ったのは3年くらい前だそうだ。部長は吹いてくれた。誰もいなくなったがらんとした仕事場に、ドゥドゥドゥドゥ〜♩とホルンが響き渡った。
それで知人の歌であるが、発表会は某市の公民館。音楽ホールとは名ばかりの100人収容の部屋で、音響というほどの構造はない。それでもお客さんは60-70人はいた。おじいちゃんおばあちゃんが多いけど。そんなだったが場違いなほど皆レベルが高かった。「ブラボー!」という声掛けは身内もあったが(笑)いやほんとに凄かった。
ただ「凄い」の中身は、技巧が上手い人もいれば、惚れ惚れ聴けるプロ並みの人もいた。その中で知人の歌は心に滲み込んで来た。心も体もぎりぎりだとアートも研ぎ澄まされるものだ。逆にいえばアートは心や健康を病んだり、生活環境がぎりぎりだと深まる。知人の歌は長く聴き継がれる響きがあった。
いくら上手くても感じることがないのは習い事である。趣味と命がけ、すなわちアートの間には深いキャズム(隙間)がある。人を動かす芸には技巧だけではなく、体験してきたナイフのような人生がある。それが空気を変形させて人に伝わる。
印刷会社の部長の吹いた曲には哀感があった。もはや誰も使わず、何も生み出さない冷たい機械に、部長のホルンの音が滲み込んでいった。上手いを超えるとはそういうものだ。
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