自分の文は読みにくいのではないかとよく思う。文表現にはこだわる方だからだ。
公園を散歩して、輪投げして、しょぼい茶店で珈琲を飲んだ。原稿が進まない…と散歩相手に愚痴った。
「こだわる方だからかな、書くのが遅いのは」
「ベートーベンみたい」
「?」
「ベートーベンは楽譜を書いては直し、書いては直しで真っ黒でぐちゃぐちゃだったそう。でもモーツァルトは書くのは一回だけ。だから楽譜は綺麗なの」
「へえっ」
「だからベートーベンはあんなムツカシイ顔して、モーツァルトはのっぺりのほほんの顔してたというわ」
紛れもなくぼくはジャジャジャーン〜!だ。ショーンKのように眉間にシワ寄せてるのだ。唸って書いているのは医師物語だが、その医師を取り上げた雑誌の記事がある。そのラストフレーズはこうだ。
「○○がん治療の未来は、○○医師の手にかかっている」
こういうふうに書ければラクだ。でも門切り型のフレーズに寄りかかりたくない。新聞にも週刊誌にもこんなフレーズはいっぱいあるし、門切り型は一般には読みやすいのだろうけど、ぼくはむしろつっかかる…
「個性を捨てることはないわ」
そう言われて、そうだなと思った。自分らしい表現にこだわるから時間がかかる。それでいいじゃないか。まず自分が読み通せればいい。
力を抜いて書き出すと、書けた。書けたものには自分の「歩調」があった。そして自分が読み通せると、他の誰かにも読み通すことができるのが自然とわかってきた。
ふと言葉が降りてきた。
文学と文楽。
どちらもブンガクと読む。前者は自分にこだわって書く文。後者はラクして書く文。言い換えれば、前者は学ぶこと、後者は楽しむこと。どっちもありだし、どっちもないといけない。それでいいのだ。
今回もお疲れ様でした、自分。
余談。この公園のカラスはヒトサマのお弁当やお八つを、ひょいっと持ってゆく…^^*
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