どうも途中で本を読み止める癖がついてしまっていけない。伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』もその一冊である。
退屈なわけじゃない。真逆である。才気活発で洒脱なエッセイには、多彩な才能に恵まれた氏の若き眼光鋭いまなざしと、ニヤリとニヒルに笑む唇を感じる。実に上手い。その上手さに蹴倒されて読み止めたというのがホンネ。嫉妬もある。
だがそれよりも、こういう上手い文をじっくり読むと、影響されやすいぼくはすぐにかぶれて文が退屈日記風になってしまうのだ。だから放っておいた。
ところがしばらくぶりにさっき電車の中で読み進めると、今度は別の理由で止った。
『これだけは知っておこう』という項のハラキリについて得々と語るくだりと、そのすぐ後の“外国旅行の心構え”にあった一文のせいである。
ハラキリって言うけどねえ…と氏はハラキリを書き出す。腹を切って即死するわけじゃない。首を落とす人がいるんだ。介錯人の首の落とし方には3/4までというやり方があると説明する。さらに切腹者の「勇気度」別に介錯の仕方がある、勇気度ゼロは…と続く。その仔細さはともかく、氏が英語でこれを説明できたと考えると驚かされる。
さらに外国旅行の心構えでは、外国に長期滞在する日本人のホームシックについて書いている。これは一時人生から降りている状態であり、仮の生活である、日本に帰ったら本当の生活が始まるのだ…とホームシックの心情を書いて、こう続ける。
勇気を奮い起こさねばならぬのは、この時である。人生から降りてはいけないのだ。成程言葉が不自由であるかも知れぬ。孤独であるかも知れぬ。しかしそれを仮の生活だと言い逃れてしまってはいけない。
ご承知のように伊丹氏は飛び降り自殺を果てた(疑う諸説あるが)。ゴダゴダに巻き込まれるよりは潔いと見る人もいた。いずれにせよ彼の最期と、ハラキリの生々しい描写と、「人生から降りてはいけない」という言葉が重なりあって、本をとじた。
電車を降りると一軒の家から歌声が聞こえてきた。朗々と歌い上げる美声はクラシックである。きっと夜も昼も練習しているのだろう。ここに諦めない人がいる。勇気を得て文を書き出した。まだまだ。
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