書く、書かれるという戦い

久々にネットで「読んだな」という記事を読んだ。『なぜスクープを連発できるのか  新谷学・週刊文春編集長を直撃』。

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ベッキーとゲス、甘利大臣の金銭スキャンダル、清原覚せい剤事件、宮崎議員の不倫、元少年A…と立て続けにスクープをモノにして幾つも「完売」で進撃する週刊文春。このロングインタビューでなぜ連発できるのかわかった。舞台裏がわかった。

年間2,700件もある売り込みよりも、自らスクープを嗅ぎ取る体制がある。厳しい企画会議があり、張り込みやウラを取る努力、ぽろりと「タレコまれる」まで長い時間をかけて関係者と気心を知り合う。だが何よりもその編集長の意識が凄い。

この地位にいる人がこんなことやっているーそれは世に問うべきではないか。

後追いや安全パイでゆかない気骨の編集長。えげつないスクープではなく、あくまでサラリーマンが新橋で一杯やりながらネタにできることを目指す。彼の好きなモットーがいい。反骨のジャーナリスト宮武外骨の言葉である。

「過激にして愛嬌あり」

だからベッキーへの「ネットリンチ」は良くないと編集長は言う。同意見です。あんなに頑張ってきたのに、たったひとつのこと(しかも恋は悪いことじゃない)で地に落とすネットリンチはありえない。反省しそれで再起すればいい。好きなら貫けばいい。がんばれベッキー。

週刊誌以外に一次情報を持たずに、ただ読んだことで過激に書くなんてありえない。そんな権利はない。思っても「書かない」のもたいせつ。ぼくは「自分以外にもそれを書けるか?」と問いかけて「書ける」なら書かない。

だからといって「お行儀の良いこと」では誰も読まない。書く、読ませるということは実はせめぎ合いの中で決まることだ。それなくして書いているライターもどきが多くていかん。

この記事も森健氏というちゃんとした(という表現は失礼だがしてないのが多くて)書き手が聞いて書くから、編集長はここまで語ったのだと思う。書く、書かれるは戦いなのである。

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