北澤真弓さんがFacebookにアップデートしていた詩を読んだ。じんときた。
その生涯をもて小鳥らは
一つの歌をうたひ暮す
単調に美しく
疑ふ勿れ
黙す勿れ
ひと日とて与へられたこの命を
詩人三好達治が「これからは詩という道を歩いてゆこう」と決意して詠まれたと北澤さんは書いていた。彼女は書家だから「書」が歌だという。小鳥はたったひとつの歌を歌い続ける。単調だからこそ極めないとならない。自分のしていることを疑うな。止めるな。命をかけてやりなさい。良い詩だ。
不勉強にも三好達治の詩はほとんど知らない。そこでこの詩の題名を調べてみると『裾野』というもので、詩集『南窗集』に収録されている(昭和7年刊)。まったくの想像だが“裾野”というのは、裾野で小鳥のさえずりをきいて纏めたのか、詩という山に登るにはまだ自分は裾野にいるという自戒を歌ったのか。恐らく両方だろう。
小鳥といえば、メジロのチュンを思い出した。
先日歩いた東京散歩で「みつけた!」と思ったら、どうやらウグイスだった。ウグイスの目の周りが白いのがメジロのようだ。
あのさ、日本語の詩なんだから、縦書きにしろよ。後で気づいた…(^^;
ただぼくは詩人のように自然派ではないので、小鳥をこれほどロマンチックに歌えない。ぼくにとっては「文」が歌だ。恋の瞬間、恋のさえずりなら描きたい。いや恋を書く、それも何度も表現を変えて、切り口を変えて、物語も主人公も変えて書くという決意をしている。
評伝を読むと、詩人三好も恋でずいぶんと格闘した。惚れた女に振られても振られても突進し、ようやく結婚したらすぐに愛想を尽かされて、暴力をふるったとか。まあ詩人に激情はつきものだ。文郷(ぼく)にも激情のかけらはある。恋しつくして、しつくして、愛する人を幸せにしつくしたい。まだ裾野だ。
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