功>罪という不等式

北側の部屋で干した布団を整えていたら、頬に風のビンタを感じた。

あれ?…窓もベランダ扉も開いていない。ツムジ風か。発生源に思い当たることはある。さて、あいつだろうか。

そういえば昨日、こんなことがあった。

御朱印帳をコートのポケットに入れて散歩した。近所の神社で初詣と御朱印と…と思ったのだが、凄まじい行列だった。

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初詣は延期した。そもそも新年早々、ぼくの願い事は世間一般には背信的なことである。パンパン!の後に声に出したり絵馬に書くと、神様から「おのれの罪を改悛せよ」と言われるのがオチ。ゆえに拒まれたのだろうか。

そんなことに怯まない。風のビンタをくらっても前にゆく。

ある医療関係者の著書を読んでいたら、こういうくだりがあった。はしょって引用する。

退任してからの武見評に「功罪相半ばす」という言葉を見かける。善悪決めかねるというなら黙して語らぬがよい。「功罪相償う」の意味なら、功績があったから罪は大目にみようというのなら、大きなお世話だ。

武見とは武見太郎、元日本医師会長で、政界財界にも睨みがきいた大物である。筆者が彼について「相半ば」と書くのがおかしいというのは、功も罪も「質」であって、それを「量」で割ることができるのか?という、理系ならではの発想である。また罪を犯しても功績があれば許そうというのもオカド違い。功績は功績、罪は罪。相殺できる筋合いのものじゃない。

痛快な文だが、「相半ば」も「相償う」も現実の人生にはつきものである。

たとえばぼくは従軍慰安婦の和解では、安倍総理を見直した。異論議論はあるだろうが、隣国とケンカを続ける道理はないと思う。ただその他の政策ではノーもある。それが政治である。それでいいのだ。

功罪相半ば、相償う、それが自然だ。功>罪という不等式をつくろうともがくのが人間なのだと思う。

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