心の貫入

暮らしの場面と自然への祈りをこめて陶器をつくる人、藤原ひろ子さんが「貫入」の話を書いていた。

『貫入(かんにゅう)』とは、釉(うわぐすり)と素地の陶土との収縮率の差により生じる、釉のひびのような模様」であり、お茶やコーヒーなど液体がヒビに入り込み、模様を目立たせる。彼女の言葉を引用させて頂く。

それは大げさに言うなら、使い手の日々の暮らしの記録であり、記憶でもあります。毎日どんな風に茶を注いできたのか、何を想いながらコーヒーを飲んだのか。ひょっとしたら、そんなことまで浸み込んでいるかもしれません。
貫入は、ひとつとして同じ模様はありません。だから、貫入に色が入れば入るほど、その器はオンリーワンになるのです。

なるほどと思って貫入のある器を探してみた。ひとつ見つけた。

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ぐい飲みである。あ、人にも貫入があるじゃないか。

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額や眉間、目尻の皺、ほうれい線といった加齢のヒビ。人によって違うとはいえ、だいたい似ている。顔だけじゃない。ひと皮むいても貫入がある。人は人体解剖図通りではなく、動脈が多いとか、血管が太いとか細いとか、臓器の位置が違うとか。どう育ち、食生活や運動でもヒビは違ってくる。それも人体の貫入だ。

ぼくは心は臓器だと思ってるけど、そこにも貫入がある。

迷って立ち止まり、後戻りし、回り道する。四つん這いの跡、転んだ凹み、涙のしずくが心に貫入をつくる。数と深さは人生の困苦によって違う。

仏教に「大悲同感」という言葉がある。苦み悩む人に「私はこうして救われた」と言っても人と人は違うから響かない。「分るよ」と言うのは浅い。結局、その人と一緒に悲しむことしかできないという意味だ。

昨日も人に「分るよ」と浅い言葉を放ってしまった。言葉は相手の貫入になかなか浸透しない。言って後悔した。

だが割れがあるということは分り合える。割れと割れがぴったり合わなくても、人ならだいたい同じ。ほんの一部同士が重なれば、それでいい。それが出会いというものだ。それは悲しいことではなく、真の幸せであり真の愛なのである。

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