真っ赤に燃える心を消火する。真っ黒に沈む苦悩に光をあてる。口笛吹いてやってみようじゃないか。
躁鬱病(気味)のぼくだけでなく、おそらく燃え過ぎ病のキミにもそれが必要だ。暗過ぎのアナタにも必要だろう。このところ患者の心に寄り添う精神科医の本を数冊読んできた。飽きてきた。今度はぼくがみんなの心をアゲる物語を書きたい。
というのも、だんだんそれができるようになってきたから。それとは「自分を上から見ること」である。
たとえばある仕事で糾弾されたとしよう。たいてい怒るか嘆くか逃げるかする。以前のぼくはそれらを全部やった。怨みもした。だがもしも、上から自分を含む関係者を一望できれば、自分が悪い所も、関係者の悪い所も、何が不協和音になっているのかも、見える。全体が見える。見えたら次にどうすべきかも見える。泰然自若の心がもてるようになってきた。
なにしろずいぶんと悩み、暗いトンネルを歩き、叫び、泣いてきたから。だがもう流れにはあらがわない。自分を見る自分がいるから。自分を見る自分が肩にのっている限り、見えてくるから。
相変わらず片意地を張る自分も見えるし、だんだんさばけてきた自分も見える。相手の心に鈍い自分も見えるし、前より相手を慮れる自分も見える。道半ばでもその変化が見えるならそれでいいじゃないか。
自分というヤツは、結局こんな自分だから受けとめるしかない。自然体で変えられるところは変える。でもムリして変えることはしない。相手がそれを気に入らないなら仕方ない。でも相手にどうしてもわかってほしいなら覚悟して貫く。それもまた自分なのだ。それが自分の自然体だからあらがわない。
しかし自分よ、のっていたんだね。どうりで肩が凝ると思った(笑)ぼくがそれをできるようになってきたからと言って嫉妬するな。君は君のもつ自然体で生きればいい。
収穫祝いでうどんを作った。シコシコしてうまかった。ありがとう。
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