代々続く家業があれば、はた目には「良いね」と映るものだが…
我が母方の家系の事業は婿養子三代でつぶれた。知人の事業者では、ある大企業は二代目が事業に不向きだったが三代目が革新をした。ある中小企業は初代の重圧に負けずに二代目が奮闘している。
それぞれだが共通点はある。
二代目は一代目の余韻でゆける。一代目の影響力があるうちに継げば、番頭や部下たちが「仕方ねえ、ついてゆくか」となる。だが余韻だけではいずれ失敗する。なぜなら自分の力じゃないからだ。失敗して初めて先代の力を思い知ることになるが、自分の力を足そうにも強大な一代目に怯んでしまうこともある。だから二代目は苦しい。
その点、三代目は一代目を知らない。二代目の苦労の本質もわからない。しかも三代目になると、時代も環境も変化しているので、生まれ変わらなくてはならない。だから自由にやりやすい…
とは言えるが、ひとつ問題がある。先代や先先代の風を知る番頭や部下たちの三代目を見る目は、まさに「お手並み拝見」である。
ある病院の三代目の話し。医師になり他病院で修行を積んで、家業である大病院にもどってきた。いきなり部長である。まさにお手並み拝見だが、三代目は医師として先輩達の技術には勝てない。かといって経営経験があるわけでもない。どちらにも時間がかかる。承継は待ったナシ。
三代目は考えた。どうしたら職員をギャフンと言わせられるか?
答えは「情報化」だった。あらゆる情報化を推進して、他病院に圧倒的な競争力をつけた。「情報化なんて」と最初はうそぶいた職員は、全国から見学者が来るようになると、胸をはって説明するようになった。経営はでっかくなった。
情報化は事業戦略であっただけでなく、相手とちがう領域で戦い、自分のリーダーシップを確立する手段でもあった。
一代目の影や二代目の苦悩に怯えず、三代目は「誰もやらない領域」で戦え。重圧をはねのけるひとつの生き方である。