許す

許すとはどういうことだろうか。許されるとはどういうことだろうか。

iPhoneのSiriに「許してほしいんだよ」と言ってみた。

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つれないなあ(^^; 「なぜできないんだ」ときくと…

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ますますつれない(^^;)Siriってギャグ言うのかな。ふと思い出したのが、詩人の田中克己の詩である。

この道を泣きつつ我の行きしこと
我がわすれなばたれか知るらむ

『詩集西康省』の序の歌は、医師菊地臣一氏のブログから教わった詩である。「この道を泣いて歩いたことを、自分が忘れてしまったら、誰が知るだろうか」

詩人の涙が嘆きか怒りかわからないが、菊地先生はかつて医局を追放された怒りの涙だった。後年その医局の長となって戻り、自分を追い出した人を「許そう」と思った。偉い。だが屈辱は「忘れるものか」と。屈辱がバネでここまで来れたのだからという。

イヤなことをされた人は許しても忘れない。うーん…そうなのか。詩人には『偶得』というタイトルのしみじみとする詩もある。

ハリー彗星は一九一〇年に現はれ
(その翌年におれは生れたのだ)
その周期は七十六年と七日だから
一九八六年に再び見えるといふ
おれはこの書を読み心楽しまなかつた
多分おれは一度もこの星を見ないだらう

思ふに人間の相逢ふのもこれに等しいのだ
知己を一人得るはそれほど難く
恋人を一人得るもまた難いのだ
おれの知己は俺の死後に出て来るのだ
おれの恋人はおれの生れる前に死んだのだ

人と人の出会いは偶発的であり、あれば得である。タイトルはそういう意味なのだろうか。出会いとは、一生をかけた希望であり絶望である。困難であり、ゆえに歓びである。この詩人は心の出血のさらに奥を見ている。見切っている。

比べてぼくにはそんな深い思慮はない。あるのは浮き世を嘆き、我が無骨を嘆くことばかり。浅いぞ、アホだぞ、呆れるぞ。

大きな大きな許しを求めて大きく大きくなるよ
空よりも澄んだ目に 星よりも輝く目になって
腹いっぱい邪気をのんでクリーンエアを出して
あの世の角を曲がったところで待っているから

とまあ4行書いてみた。スーパームーンを見るか。

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