小さい頃は誕生日というとサプライズにわくわくした。いい年になった今でもわくわくするんだけど、サプライズよりもノーマルがうれしい。たとえばトマトパスタのような。
今日は誕生日だった。猪突盲進をモットーに生きてきたぼくは、毎年の誕生日でこう思ふ。突進力は落ちてないか。感動力は落ちてないか。言葉はまだ降りてくるか。この三つである。
視力も体力も落ちたし、「あれあれ…」と記憶力も減退しつつある。肉体のピークなんてとっくに下降線。でも普通の人よりはアヴァンギャルドなアホさは健在ですよ。オペラを観て感じることだってあるしさ。蝉の亡きがらを見て心が動かされて墓標も立てる。肉汁のように染み出してくる我がエクトプラズムだって見えるのだ。
言葉は降りてきているーと思うけれど、文はジコマン(自己満足)だけじゃだめ。芸なのだからヒトマン(他人満足)ができてナンボ。だが言葉は降ってくるもの、雨みたいなもんだから雨乞いあるのみ。文人はただ雨水を受けとめる雨樋の掃除をし続けるしかない。それは書くために考え、書いてまた考えることだ。だから誕生日にも書く。
でも今年感じたのはそれだけじゃない。ノーマルな幸せこそ幸せだなって、しみじみと感じた。
他愛無いことだ。相方としゃべる。散歩して買い物する。一緒に電車に乗る。価値観を認めあう。楽しく食べる。そんなことだ。
そんなの簡単…って言いますか?大方には簡単かもしれない。でもぼくにはずっとむつかしかった。ずっとできなかった。ずっと苦しんでいた。そんなことを思っていたら屋根の向こうに花火が上がっていた。ぼくへのお祝いかな(^^)相方と並んで花火を見るーこれこそ幸せ。
これからは好きな人を愛し抜く力を増やしたい。それが人にとって一番大切で、一番むつかしいことだから。
去年から今年にかけてモタモタして、神様のあらゆるご慈悲にすがってきた。今年は55、GoGoと生きるぞい。波をかぶり雷鳴に打たれ噴石に当たろうとも、現実的に夢を追って生きたい。
誕生日は幸せ点検日。これからは自分がノーマルな幸せに向かっているか、誕生日に点検したい。
郷さん、お誕生日おめでとうございます!
私は歳を重ねるごとに、いぶし銀のように深みが増していると思います。
郷さんという人間が。
追いかける背中があるのは、幸せでございます‥‥。
おかげで私も頑張れています。
郷さんの文が起爆剤になっている今日この頃です。
どうか愛溢れる一年でありますように‥‥。
どうもありがとうございます。
ぼくの背中にウロコがあるのを見たなあ…(^^) 年取るとウロコも落ちづらくなりますね〜 mimoさんの歌のように、蝉しぐれの中で、洗われてゆきたいものです。どうもありがとう〜!