“ヒロシマ•ナガサキ”を読んで

先日来、柴田優呼氏の『“ヒロシマ•ナガサキ”被爆神話を解体する』を読んでいる。丹念に膨大な資料にあたった分厚い本である。なかなか読み進めなくて、感想を書くのがヒロシマとナガサキの間の日になった。

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広島現地の米軍報道の現実、事実を伝えようとする日米ジャーナリストへの言論規制、そしてジョン•ハーシーの『ヒロシマ』ルポに至るまで、丹念に語る。調査力、構想力、そして鋭い視点がある。

副題にあるように「共犯関係」が軸にある。それは「dropped」から始まったという。

米国から見れば原爆をできるだけ戦勝という側面から見せておきたい。米国民にも世界にも、そして日本にも。「早く戦争を終わらせた」「これ以上の被害者を出さなかった」という原爆使用の正当化論は広く知られが、それが始まったのが、原爆投下直後のトルーマン大統領の声明だという。

16時間前、アメリカの一機の航空機が、一発の爆弾を広島に投下して、敵(日本)にとって役立たないほど破壊した。(翻訳は郷)

声明で原爆はdroppedと表現されている。投下したー爆撃したでもなく殺戮したでもない。原爆の爆発力に焦点を合わせて「落した」という単語 dropped 、中和された言語表現にこだわった。予想される放射能被害には触れず、現地の報道は計画的に規制され世界になかなか伝わらなかった。

くぐりぬけて伝わったものは少ない。ジョン•ハーシーのベストセラー『ヒロシマ』は、原爆後生き残った6人に焦点を当てた「サバイバル物語」と一刀両断する。一方、原民喜氏の『永遠のみどり』にある「水ヲ下サイ アア 水ヲ下サイ」の鎮魂歌を、伝えなければならかったと挙げる。

重い本である。ゆえに感想がまとまりにくいが、ハーシーの原爆サバイバル物語を批判した作家が、「ハーシーは死者に取材すべきだった」と言ったくだりを読んで思ったことがある。

戦争では、片面から見る/語ることだらけだ。

大本営発表しかり、米国のプロパガンダしかり。「聖戦へ 民一億の体当たり」「(何十万殺しても)原爆は正しいんだ」情報の一方通行でみんな麻痺してしまう。しまいにお上を信じだす。

そうなりそうになったら「死者に取材すべきだった」を思い出したい。生者にできることは、死者の心をひたすら想像することだけだ。

70年前の死者を想像する数日、合掌。

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