心眼

昭和の大作家、武田泰淳に『目まいのする散歩』という晩年のエッセイがあった。氏が脳血栓を患い、半身に後遺症の麻痺が残った身体で、あっちにゆらゆら、こっちで一休みという散歩をする中での随想だった。

身体とは老化するものだということに、思いを馳せることができない20代の読書だから、ぼくの理解も半分だっただろう。それを読み返すよりも、今日はそれを地で体験した。

武田泰淳よろしく、夕方散歩に出た。目の見えない散歩である。

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買い物ついでのひと歩きを裸眼で歩いた。あっちにゆらゆら、こっちにふらふら、キョロキョロと立ち止まる我が身、大作家の気持ちもわかろうというものだ。来週の眼検査のために、コンタクトレンズを入れることができない。強度の近視に白内障を患って、入れてもぼんやりするとはいえ、コンタクトレンズがこの世との唯一のコンタクト手段だ。それが入れられないとなると、相当見えないのだ。

すでに度数が合わないとはいえ無いと困る眼鏡だが、かけると疲れるので思い切って外して歩いた。裸眼は気持ちがいい。だが危ないことこの上ない。どこかの家の軒先にあったホースを格納するリールが猫に見えた。ホースが尻尾だった。

こうなったら、五感の残りの四感を研ぎ澄ませるしかない。

触覚、用心深く足を上げて歩くので転ばないですむ(ぼくはよく転ぶのだ)。聴覚、勢いよく追い越してゆく自動車にさっと身を縮める。車が凶器なのかドライバーが悪魔なのか。嗅覚、道ゆく人は皆ムンクの絵のように叫んでいる。いや笑っているのだろうか。どっちにしろ見えないものは見えない。

お店ではもっと苦労した。商品が見つからない。単純なものなのに見えないからウロウロ何度も商品の前を通り過ぎた。100円ショップとスーパーでは時間をかけて所用は済ませたが、ドラッグストアでは買い物を諦めた。

仕事も捗らない。テープ起こしはPC画面がよく見えず、打ち間違いが甚だしい。そして疲労も甚だしい。悪いことは重なるもので、親しい知人にも叱られてシュンとした。目が見えないと何もかも見えなくなる。ヤケにもなりたくなる。

ハタと気づいた。そんなときこそ心の目が大事である。

目を閉じて、心の目をつかおう。心で見て、心で考える。心で心を訪ねる。心で泣き、心で笑う。心を目にして進んでゆこうじゃないか。

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昨夜のブルームーンも心の目で見ました… だってボケてるもん…

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