オリンピックが平和の祭典ならば…

夫は会社帰りに読んできた夕刊の話題に触れた。

「次のオリンピックは東京でほとんど決まりだな」

夫の言葉を奥様がかみくだいて「世界で一番泳ぐとか走るのが速い人が運動会のこと」と幼い子に説明する。奥様は夫の意見に同調してこういう。

「オリンピックとなれば、また復興祭みたいなパレードやなにか、あるわねえ」

奥様は5年前の帝都復興祭を思い出されたに違いない。だが夫は言い返す。

「あんなもんじゃないだろうよ」

中島京子の『小さいおうち』にこんなくだりがある。老いた女中が、昭和時代、奉公先で体験した話を語るという物語。

このくだりを読んで一瞬「あれっ?」と思った。彼らが語っていたのは、1964年の東京オリンピックではない。昭和15年、1940年に開催されるはずだった幻の東京オリンピックのことだった。

日中戦争の影響で開催を返上し、次点の候補地だったヨードチンキのような名前の(というくだりが『小さなおうち』にある)ヘルシンキになったが、戦争で中止となった。

奥様が言う“復興祭”とは、昭和5年、1930年に開催された関東大震災からの復興記念のパレードである。つまりこの語り合いの場面は昭和10年、アジアの小国日本が世界へその力を見せつける気概に満ちていた。そして昭和39年の東京オリンピックは、敗戦からの復興記念だった。

過去2回の東京オリンピック、良くも悪くも国威発揚だった。今、国立競技場で高コストを巡って関係者も世間も意見が支離滅裂なのは、そういう大義名分がないからだと思う。

東北の震災復興ではない(と感じる)。もちろん戦争からの復興ではない。戦争に向かう意気揚々でもない(と思いたい)。経済は成長よりも成熟、いやマイナス成長。国のシンボルを醸成する統一感ができない。だからリーダーも出て来ない。

テレビもネットもある今、世界的なイベントが目白押しで、世界最強選手へのワクワクも昔に比べれば小さい。しかも国境や歴史認識を巡って隣国と仲が悪い。純粋に「いっちゃえ」と言えないのだ。

でもぼくはこう思う。日本が「大きなおうち」になれるチャンスにできる。国立競技場は低コストにして、その予算を国内や世界の恵まれないスポーツのために少しでも回せないだろうか。スポーツODAみたいな感じができないだろうか。

オリンピックが平和の祭典であるなら、そうしてほしい。世界から「さすが日本人」と言われたい。ましてオリンピックが戦争への曲がり角だった…と言われたくない。

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ひさびさのバナナ、美味しかった…^^*

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