語りは騙り

小説家が作中で登場人物に語らせることは、噓っぱちである。噓ではあるが、説得力をもたせなければ読む人の腑に落ちない。しかしどこまでいっても噓は噓。どうすればいいのか?

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先週来、まだ自分の創作の世界にさまよっている。夜も昼もさまよっている。昨夜は1時半まで、今日午後から夕方にかけてもさまよっていた。このあともさまよう。そろそろこの世界から抜け出さないと出れなくなる。だが、まだ降りてくるものが足りない。それを待って夜空を見上げている。そういえば近しい人にこう言われた。

ごーさん、焼けたんじゃない。

焼けたとしたら月夜焼けか蛍光灯焼けである。パソコンからのLED焼けだろうか。発ガンにならければいいけれど。

今夜もまだ書かニャア…と思っていると、なんと猫がさまよいこんできた。

部屋にするりと入ってきたのだ。せっかくの来客、よしよし撫でてやった。ぐるぐる言うじゃなか。喉をこすろうとするとパタン!となぐられた。背中をなでるとうにゅうにゅいった。気持ちいいか。さかっているようだ。猫はせいぜい2週間、ぼくはここ1年半ずっとさかっている。かくも罪深い欲情よ。ぼくも背中をなでてほしい。

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思えば夏目漱石が我が輩は猫であると語らせたのは革命だった。真っ赤な噓でありながら読みひたっしまう。文豪とは噓をほんとに思わせる天才である。

そもそも猫はなんでもお見通しである。レーダー装置のようにくるりくるりする耳は人の話を聞いている。オマエ噓ついてるだろ?と占い師のようなまなこで善人•悪人を見抜く。しゃーっと言ってはぼくをなぐるし…(^^;

こやつが来てくれてちょうどよかった。実は創作中にも猫を登場させている。

道案内の役である。カギを握るひとつの存在なのだが、もっと神秘的に、もっと運命的に猫を動かせたい。人をはぐらかし、また導く存在に描きたい。まだまだだにゃあ…

ぼくは文豪極小ミニなので、噓をまことしやかに書くことができない。できるのは、そして描きたいのは、どこかしらギャグな世界である。つらいことも、いやなことも、どこかしらフィクションな世界である。読み手が気持ちよく騙される世界である。言葉遊びを重ねて噓っぽく書くことで、逆に微妙な説得力をもたせたい。

猫をなでなでして祈願している。降りてこいよ…ことば、と。

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