母の日のざれごと

母の日である。祝えるうちがハナですよ。

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我が輩の母は2年数ヶ月前に逝ったので、今さら母の日が来ても何ということはない。カーネーションという出費もなければ、わざわざ実家に出掛ける面倒もなければ、繰り言のような話に相づちを打つこともなければ、携帯電話に付ける革製の犬のストラップをネットで代行して買って送るという面倒もない。

だがせめて母の日にくらいもう少し時間を取ればよかったと、ナンジ悔やめと誰かに言われているようでつらくなる。後悔先に立たずを味わう人は、吾輩だけではなかろう。先日のぞいたFacebookで、実家の母が入院して手術をするというコメントがあって、どうすればいいか助言を!と書いていたのでこう書いた。嫌がられてもできるだけ病室に長居しなされ、できれば泊まってあげなされ。そうした医師がいたので思い出した。そうすればよかったと思うのは後の祭りであるし。

イプセンの戯曲『ペール•ギュント』にも、放蕩息子のペールが母のもとに訪れるシーンがあった。愛するソルヴェイグにふさわしくない自分を悟り、彼女のもとを去る。その足で訪ねた家で母の死を看取る。旅に出てしまうのはいたいほどわかる。愛する人を同時に2人失くしてしまったのだから。

しかしペールの母もそうだったように、母というものは小言を言うものだ。叱るものだ。怒るものだ。泣くものだ。どんなに激怒しても決して子とは切れないものだ。へその緒とはそういうものだろう。

母のそんな愛を思い返すと、母はこう言っていたのだと思う。

あんた、切れない愛を持ちなさい

たとえばキンキンとケロンパのように。キンキンは離婚が成立した翌日にケロンパとの婚姻届を出したそうだ。きっと前妻が離婚してくれなかったのだ。でも翌日なんて誠実だと思う。

人のことはさておき、自分のことを思うと、母は「しっかりせい!」と言っているなあ。生涯にひとりくらい、愛する人への愛を切らすことなかれと。結局、ほんとうに愛する女性は、男にとって生涯に二人だけだ。母と運命の人。それで十分なのだ。

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母の愛は海よりも深く、愛する人への愛は空よりも高く。母の日の戯言(ざれごと)でした。おしまい。

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