散歩のある人生こそ

「幸せな家庭はどこもよく似たものであるが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」と書いたのはロシアの文豪だが、日本の「文郷」(^^)のぼくならこう書く。

幸せな二人の散歩はどれもよく似ているが、不幸な二人の散歩というものは存在しない。

なぜなら不幸なカップルは二人で散歩に出ない。デートは無くなり、共に出掛けるのは買い物や冠婚葬祭など必要に迫られたものとなる。歩いても終始無言、片方が遅れても気づかない。一緒にパチンコ屋に行って「じゃあね」もある。そもそも散歩が存在しないのだ。

散歩とはゆるやかに目的のある歩きである。たとえば次の妄想をしよう。

近所の小さな公立図書館にゆく。公民館の1階図書室で、電話予約した古い本を借りる。初めて入った公民館は選挙の投票所にも。2階はおじとおばたちの集まる会場がある。3階にはホールがある。歌の舞台になりそう、そうだねなどと語る。

その足で少し先の桜並木通りを目指して歩く。歪んだイゲタのように直角でない道ばかりだから、曲がり角をGoogle Mapで確認する。花は咲き、緑はツノだしアタマだし。猫が横ぎってこっちを見た。まだ小さい。

IMG_5796

散歩とは生物や植物の妖精と出会うことである。

桜並木への大通りに出ると、角にドラッグストアがあった。洗濯用の手袋も猫の缶詰も買わなきゃ。店を出ると道路の向かい側におや?という店の集積が見えた。あの店は激安のあの店かも。行ったことがない。近づくと郊外田舎のショッピングモールであった。1Fにはゲーセンがずらり、プリクラでぱちっと、行列のパン屋さんの先に安売りの靴屋さん、その隣にどーんと広いテナントが、(ニトリ+しまむら)÷2の服飾用品店。価格もハーフだ。2Fの100均ショップ脇のベンチに腰掛けて、洗濯についての議論をする。課題解決の道は見えているが。ともあれここは再訪を誓う。

散歩は身の丈の暮らしの楽しみを教えてくれる。

時にはカップルは喧嘩もする。喧嘩の後の散歩はぎこちない。片方が先を行き、片方が後ろを付いてゆく。一列縦隊である。前から後ろから他人行儀な言葉を投げ合う。なんだい?とだんだん近づく。言葉からカドが取れてゆく。紐でつながっているから。

散歩とはゆるやかな愛のある歩きである。人生の喜びとは散歩ができることに他ならない。

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