生き方=文章

千宗室のエッセイは妬ましいが背筋を伸ばしてくれる。

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雑誌『ひととき』に、茶道の家元千宗室氏が連載したエッセイを上梓したのが『京都の路地(みやこのこみち)まわり道』である。京都のこみちの春夏秋冬だけでなく、氏の茶室のこと、訪れる先々のことを茶人ならではの筆致で描く。並のエッセイではない。自然に対する洞察の鮮やかさ、それを表現する語彙に息をのんだ。

京都の蒸し暑さは誰にも知られるところだが、それを「湿気で着ぐるみ状態になっている」と表現する。その暑苦しさがじっとり伝わる見事な表現である。さらにこう書く。

秋が冬を連れようとするのか冬が秋の背中を押そうとするのか、季節同士にも戸惑いが感じられる。

秋から冬へ、季節の境目のどっちつかずを見事に表現している(瞬きの秋)。さらに春には<春の腰が据わる>という表現にもやられた。

コブシやハナミズキ、モクレンが存在感を増すにつれ、春の腰が据わってくる。(おまちどおさま)

三寒四温の今頃である。なんだか腰からあったまってきそうだ(^^)。かと思うと<文章にある余白>も凄い。山間の駅で列車が止まった。単線なので行き違いを待つ。ふとホームを見るとベンチがあり老婆が一人腰掛けていた。そこの描写だ。

突然時間が遡る。空気が緩む。そんな時、唐突に下車したいとの衝動が湧き起こる。老婆の横に据わったりしたいのではない。余白に満ちたそこが羨ましいのだ。(のんびり のんびり)

茶室や釜のことを描いた文も妬ましい。実に妬ましい(笑)こんな静謐で豊かな表現ができたらいい。だがこれは茶人としての氏の生き方がつくってきた語彙であり単語の組み合わせである。ぼくには真似できない。

文章にはもらえる文ともらえない文がある。もらえるとは真似するという意味だ。どちらにせよ、まずその良さを<わかる読力>がいる。その上で<もらえる>か<もらえないか>がある。表現(単語)だけもらっても真似はできない。なぜなら生き方が違うからだ。

強がって言えば、ぼくにはぼくの文の形がある。それがわかっているから、彼の文の良さがわかるし、世界が違うからもらえないとわかる。恐らく他の表現芸術でも似たことがあるだろう。しかし生き方が文をつくる家柄に生まれてみたかったものだ…

彼に比べて、世の中の事件や事象を題材にして文を書くという所業の浅はかさが思いやられる。書くということは、もっと自然に自分の内側から出てこないといけない。

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