自己責任だけではない。

以前から“自己責任”という言葉の響きが気になっていた。

かつての仕事上の先輩(独立コンサルタント)がミーティングで言った。前後の内容はさっぱり忘れた。たぶんプロジェクトのことでなんとかかんとか…。彼曰くー

「それは自己責任でやってもらおう」

仕事を完了できるかどうかそれは自己責任である、プロジェクトチームといえども各人のパートには責任がある、そんな話だった。当然だがなぜか心に響いたのを思い出した。

しかし社会人はこの言葉が好きだ。今朝も読売新聞の世論調査の記事にあった。

「政府が渡航注意とする海外の危険地域に行ってテロや事件に巻き込まれた場合、「最終的な責任は本人にある」に対して「その通りだ」が83%に上った」(読売新聞

むべなるかな…と思うがモヤモヤは残る。なぜだろう。まずあいまいである。どこから自己責任なんだろう。責任は転嫁とセットなんだから、転嫁はできないのだろうか。

たとえばアメリカでの医療である。教授が帰宅した後に始まった手術で、どうしても出血が止らない。スタッフは教授に電話して相談をする。教授は電話で「そこを剥離しておさえろ」と指示をする。その時点で責任は移る。だから教授はオベ場に駆けつける。一般企業でも雇用には「職務記述書」がある。ポジションごとに業務と責任が明示され、責任転嫁まである。個人主義の発達した国だからこそだろうか。

後藤健二さんの事件で3度やめろと政府が言って行ったのは、彼の責任である。だが「政府が3回注意したら自己責任になる」とどこかに書かれているのだろうか。書いてなくても仕方ないのだが…。

ただ“自己責任”という、こっちには責任がないよ、逃げ道もないよという突き放した語感がぼくには気になる。

たとえば完全装備をして北極点到達の冒険に挑戦して遭難する。自己責任だけど助けてやるかと思う。逆に軽装備で冬山をなめて登山して遭難する。これは自己責任だと思う。崇高な目標があれば、自己責任と投げ捨てるように言えない。使命や姿勢の軽重を問うてもいいじゃないか。

後藤さんには恐らく報道者としての使命感があった。危険地帯にゆくこと、身を守ることは自己責任だが、その思いが崇高なら、何かしら自己責任の一端を支えてあげたい。使命をもって死んだ人を突き放すより、弔うのが国の責任であり、国民の思いやりであってほしい。

何より簡単なYES/NOアンケートで終わらせる問題じゃない。彼はメディアの一員だった。読売新聞に限らず、メディアの方々はもっと彼を弔う論陣を張ってほしい。さもないと成仏できない。

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親なら「あんな息子」と言いつつ助けるものなのだ。(このぬいぐるみは母が遺したもの)

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