恨みは嵐。

恨みをはらすとは赦すこと。人生舞台の終わりにはかくありたい。

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シェイクスピアの『夏の夜の夢•あらし』(福田恆存訳)を40年ぶりに再読した。どちらも喜劇であり、前者は作者の活動初期から中期にかけて、後者は最後の作品(『テンペスト』というタイトルでもある)である。

同梱だから何か共通項があるのだろうか。どちらにも王が出てくる。恋がからむ。妖精がカギを握る。作中劇が出てくる。なんやかんや共通するところはあるんだが、許されない恋の関係(夢)と、赦すものか!という恨み(あらし)が対比された。

そうか…どちらも赦しがテーマだ。読了後、合点がいった。

おもしろさでは『あらし』に分があるので、そっちを観てゆこう。ミラノ公プロスペローは身内に騙されて島に流れ着き、そこで恨みを霽らすべく魔法を得た。妖精や怪物をあやつることができるのだ。流されて12年後、ついに恨みをはらす時がきた。騙した弟と結託したナポリ公ら一行が船に乗って島に近づいた。魔法で嵐を起こして船を難波させた。一行を島内で散り散りにさせて魔法で狂乱させ、悲嘆に暮れさせ、酒に溺らせ、恨みをはらすのだった。

だが魔法で人びとは血を流すわけでも怪我をするわけでもない。服さえ汚れない。ハナっから「仕返し」に血なまぐささがない。喜劇だからか。もちろんそうだが元王は心根の優しい魔法使いという暗示だろう。そして美しい娘がいた。それが敵の王の息子と真っ逆さまに恋に落ちた。恋という人を信じる力に打たれた。恋こそ真の魔法なのである。終わりにかけてプロスペローは悟る。

大事なのは道を行う事であって、恨みを霽(は)らす事ではない。(5幕1場)

プロスペローの魔法とはなんだろう。それは試練なのだ。恨みをはらす力を得た人間がどっちに傾くか、人生舞台をどう生きるか、神はプロスペローを試したのだ。

結局、恨みを霽らせば自分が晴れないだけである。“嵐”とは何なのだろう。それは恨みが引き起こす心の災いである。恨みが強ければ強いほど心は嵐になる。

人は元来復讐する生き物である。人は悲劇に暮れる生き物である。だが「魔法は存在する」。愛の芽のあるところ、改悛の芽のあるところ、希望の光のあるところに魔法が生まれる。怒りは失せ、慈悲が勝つ。

寛容さが失せた現代人こそ読んでほしい。2016年の没後400年に向けてシェイクスピアを読み、できれば舞台も観たい。

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