ことばのリズム

印刷された自分のテキストを読んでいた。入稿したオリジナルとずいぶん違う。編集者の手が入り、ある意味で「正確」になったが、ぼくは読むに耐えない…(^^;

なぜならリズムが無くなくなっているから。

Facebookにかまけるのは時間のムダだが、ひとつ効用をあげれば言葉遊びである。やりとりが言葉のエクササイズになる。ぼくの投稿は俳句あり、ふざけあり、えっちあり、変である。短文投稿は鍛えられる。少なくともぼくにとっては(^^)リズムが無い文は読まれない。読み続けてもらうにはリズムがなければならんと思う。

ぼくには文の師匠はいない。自己流である。だが敬愛する文はある。たとえば先頃死んだ赤瀬川原平氏の文は削ぎ落とされている。藤原進也氏の文は音が聞こえてくる。裸の大将山下清の文はありのままがある。群ようこ氏の文はとてもマネできない…。どれも個性的なリズムがある。言い換えれば、どんな文でもそのリズムが好きなら、読みたくなる。

ところが入稿文に<説明文>をずんずん入れてくれたおかげで、ある意味で正確にはなったが舞台が消えた。こっちは物語の舞台で役者を動かそうとしているのに、ト書きばかりの舞台にしてくれた感じ。会話にも追加や修正が見える。語ったように書こうとしてるのに説明調じゃ…。人の会話はリズム。漫才もコントもバラエティもリズム。論文じゃないんだから読者は正確さを求めない。なるほどね、ふふん、マネしてみよう、でしょ。

デタラメじゃだめだがアバウトがいい場合もある。読者に「読者代(シロ)」というものを与えるのは重要だ。読者が考えたり、調べたり、反対したり、合点いったり…。「自分ならどうする」と考えさせられば成功である。自分が行間に入れない文は誰も好きにならない。

その編集者にぼくの文は「途切れ、重なり、どこかに行っちゃう」と評された。当たってるかもしれない。でも途切れるとは間奏とも言う。重なりとは重奏とも言う。どこかに行っちゃうとは即興演奏とも言うのだ。いちおうそれらしいものを狙っているのに…。

この文の仕事で理想的なのはジャズのカルテットである。各奏者の見せ場パートがある。その人物を表す彫刻、技術や業績、教訓、笑いと泣き、そして鼓舞。それらが共鳴し合う文を書きたい。

来月から心機一転、がんばります。

banana shittori

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