心の荒野

まだ見ぬ神社を探しに散歩に行った。小さな祠でもいいのだが…

インターネットで調べるとそこに神社があるはずなのだが、なかった。近代的な老人ホームと産業廃棄物処理会社の車庫、そしてあばら屋が数軒きりだった。元はあったのだろうが、老人ホームの開発などで失われたのだろう。仕方なく付近を散策したが、祠のひとつさえなかった。

michi

だからこのあたりの商店はシャッターを下ろした店が多いのではないか。商売に神頼みが通用するとは言わない。だが商売すなわち仕事への改善努力がなくなると、火種が消える。神社はいつしか忘れがちな改善努力を思い出させる存在である。

かくいうぼくも、改善努力をしたいから神社を探した。改善したいのは「こころ」である。

自分で抑えがつかない凶器に制球力をつけたい。自分自分へと独りよがりで自己中心になりがちな心の風見鶏を、相手の方にやんわりと向けて、負のエネルギーを小さな善行に変えたいのである。

改善努力の原動力はいつでも「荒れた何か」である。今が荒れているから、改善努力したいのだ。経済や仕事に限らず、恋愛や勉強や対人関係も、どんなことでも荒れていれば原動力になりうる。

やがて夕方になって荒れてきた。列島を縦断する台風だ。

あらくれる空よ あらくれる心よ
吹き荒れる風よ 吹き荒れる声よ
止めどない雨よ 止めどない涙よ
台風はぽっかり開いた静かな目で見下ろし
嵐のエネルギーを打ちつけてくる
ぼくはぽっかり開いた沈んだ目で見上げて
嵐のエネルギーを受けとめている
よおし、外の荒野と、心の荒野と
どちらが優勢かくらべてみようじゃないか

台風は危険なばかりではない。自然エネルギーがもらえる。台風に揺れる外と、不安に揺れる内の境になる窓をはさんで思う。人はなぜ小さな善行さえなかなかできないか。それは善行の原動力を考えるとわかる。

それは深い絶望だ。心の荒野である。

絶望が深ければ深いほど、善行は高く広くなる。荒野がすさめばすさむほど、心はやさしくなる。普通の人はそれほど絶望もしないし、荒野といってもたいてい舗装されている。もしも絶望荒野が心にあるなら、それは素晴らしいことなのだ。それだけ善行がたっぷりできるから。ぼくの絶望も荒野も人並みだが、せめて絶望の人、荒野の人を理解したい。

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