大きな愛

大きな愛の物語を書きたい。

とぼくは常々思っているが、先を越されているなあ…と思いながら、じわじわ読んでいるのが『次郎物語』である。これ名作である。自己成長の物語である。感心してまだ中巻に入ったところで感想の中間報告をしておきたい。

実母に愛されず里子に出された境遇から心を閉じる少年次郎が、やがて「愛される喜び」に目覚め、さらに成長して「愛する喜び」へと心を開いてゆく。

そのきっかけのひとつは、青年期に入り「正義であること」に深く悩んだことだ。レベルの低い教師に恥をかかせ、その結果教師は左遷された。父の商売を救う義憤からとはいえ罪なる行為をした。正義と現実の間で揺れて、自分はどうするべきなのか、迷路へ入ったのだ。そこで恩師の朝倉先生に相談に行った。

朝倉先生は彼に「ミケランジェロの擒(とりこ=捕虜)」の話をした。

彫刻家ミケランジェロが友人と二人で散歩していると、道端に大理石が転がっていた。ミケランジェロは「この石の中に女神が擒にされている、それを救い出さなければならない」と言って、大理石をアトリエに運んだ。毎日、たんねんに鑿(のみ)をふるった。やがて女神像を彫り上げた。

賢明なる読者はピンと来るが、次郎にはピンと来ない。じゃあ考えておきなさいと先生に言われて、すっとわかった。こう言った。

「人間の世の中は、道端に転がっている大理石のようなものです。そんな石にも女神のような美しいものが備わっている。僕らはそれを刻んで出してやるんです」

すると先生は「鑿の刃は潰れるかもしれない。どうする?」とたたみかける。「潰れたらまた研ぎます」「でも鑿がつぶれたらどうするんだね?」「つぶれない鑿を持ちます」「そんなのあるのかい?」「つぶれないと信じればいいのです」

教訓。

家庭でも組織でも恋愛でも「愛したい」「愛されたい」と誰もが思う。ぼくもそんな思いに明け暮れていた。だがそれでは本当の愛はつかめない。欲求不満の人生を踏みしめ、噛み締めるだけなのだ。

まず「自分は弱い」と認めよう。人はみんな弱いのだ。もともと強い人なんていない。でも強くなれる人はいる。彼らはあるものを持っている。

それはミケランジェロから見えてくる。道端の石に愛を見つけられる目である。たんねんに削る鑿である。絶対に救うと信じる心である。彫り続けられる人がもつもの。それは「大きな愛」である。

ai


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