たまゆら

たまゆら、という言葉が耳に飛び込んできた。どこからだろう?見回しても声の主は見えない。向こうで猫が一匹寝転んでいた。

tamayura

たまゆら…良い言葉の響き。記憶の底にたまゆらが回っているものの、我が脳ディスクはふにゃふにゃなので回らない。ネットであれこれ調べると、語源ともなる歌はこれだった

たまゆらに昨日の夕べ見しものを今日の朝に恋ふべきものか

万葉集の和歌(2391)で、玉の触れ合う音色の美しさを詠んだ歌。「たま」は煌めく石なのか。「ゆら」は「たまゆらの命」というように「つかのま」である。たまゆらの漢字「玉響」は「たまかぎる」とも読み、かぎるは「輝く」という意味である。心と心が一瞬触れ合い、輝きあう。一瞬の耽美がたまゆらなのですね。

そういえば“たまゆらの里”というリゾート施設があるが、サービスがつかのまと言うわけじゃあるまいね(-^^-)。

意味はわかった。だが何かが足りない…と小生は股間に感じた。なぜなら「万葉集はエッチである」という言い伝えを知るからだ。

「たまゆらに昨日の夕見しものを…」をもう一度“ストレイトに”読もう。「夜にみた玉を今朝もまだ恋している」。つまり玉はバナナとすれば、ゆらとは触れ合いでなかろうか(笑)その夜の朝、また元気なのである。羨ましい。この歌だけではない。山上億良は『七夕の歌』で、牽牛(ひこほし)と織女(たなばたつめ)の別れを歌った。そこにも玉が出てくる。

牽牛者 織女等 天地之 別時由(中略)真玉手乃 玉手 指更 余宿毛…(後略)

このくだりをどう訳すか。学者は「玉=大切なものを渡しあった」と解説するが、俗者は「玉に手をあてさらに…」とエッチを詠っていると喝破する。むむむ…(笑)

まあエッチであってもなくても、玉の触れ合いとは心の触れ合いである。民族学者折口信夫は、万葉集の玉は真珠や宝石ではなく「魂である」と言う。

宗教的特質を持つてゐる人は、我々には認める事の出来ぬ神霊のあり場所をつきとめる能力を持つてをり、又霊魂の在り所を始終探してもゐます。日本人は霊魂をたまといひ、たましひはその作用をいふのです。(万葉集に現れた古代信仰

たまは霊魂であり、たまが人の身体に入ることが「たま しい」だそうだ。

ぼくなりのたまゆら解釈をまとめよう。男と女が心と心、体と体がひとつになるとき、“たま”が行き交う。エッチであり、霊的であり、喜びであり、神聖である。それが愛の本質である。

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