空っぽを埋める。

あのとき以来、心のどこかにずっと空っぽな自分を引きずってきた。今思えば、空っぽなりにも詰まっていたものはあった。

数日前、シンガーソングライターのMIMOさん(アラフォー)が若い頃にバッグバンドを従えて、熱唱する写真をFacebookにアップしていた。彼女はこう書いていた。

怖いものなんてな〜んにも無くて、頭下げることなんてひとっつも無くて、若さだけで突っ走って生きてたよなぁ・・・そして気がつけば「空っぽの自分」しかいなかった。

空っぽだから音楽をつくることを止めた。その気持ちがよくわかった。なぜならぼくも空っぽだったから。文章を書くのを止めたことがあった。22才のときだ。

止める前の最後の文はアボリジニ(オーストラリアの原住民)と白人のハーフの女性、ジュディについてだった。

アボリジニは政府から生活保障を受けており、働かずに昼間っから酒を飲んでいた。ジュディもまたコ汚いアパートの管理人のオヤジの所に来ては、酒を飲んでいた。当時管理人の隣の部屋に住んでいたぼくは、一緒に飲らないかと度々誘われた。一晩二人で24本の缶ビールを空けるようなヤツらだ。ぼくは御免こうむった。すると夜通しで隣からヒヒヒヒ…ホホホ…という笑い声とドッタンバッタン音が聞こえる。何をしているんだろう?妄想で眠れない…そんな話だった。

その掌編は、男と女の怪しさと自分の孤独を対比させて、心のうごめきが表現できていた。誰かにも褒められた。しかしその後書けなくなった。それを出したら空っぽになったからだ。

再び書き出したのは18年後、二度目の転職後に仕事にフィットするためだった。雑文から連載をもらえるようになったから感謝してるが、それで空っぽは埋まっただろうか?

ノー。ビジネスには人生を掛ける何かが見つからなかった。かといって「空っぽじゃない自分」が別のどこかにいるのか?書きたいテーマがあるのか?それも覚束なかった。

ちなみに重要なインプットと言われる本はどうか?結論として、書かせるまでの動力源を持つ本は少ない。読みすぎてマネするのがオチだ。インプットは本でなくナマであるべし。ところがぼくのそれは、仕事と女くらいなものだった。さて…

と考えてゆくと、仕事の中には人がいた。女の中には自分がいた。

なあんだ、ジュディで描こうとしたことじゃないか。さらに運命的な事も起きて、おしくら饅頭で書き出した。MIMOさんは音楽を愛していたから歌に帰ってきた。ぼくは文と人を愛するために帰ってきた…つもり(^^)。

karappo

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