母という人

母の一周忌を迎えた。死んだのは昨年10月4日だから、生者の都合というものである。

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荒天の朝がすっかり晴れ上がった。草葉の陰からきっぱりな江戸っ子ぶりを見せてくれたつもりか。寺の境内にそろりと猫が歩いていた。ニヤリとした。読経を聴いていて、死にざまを思い出すくらいなら、生きざまを思い出そう。

母は江戸から続いた大きな玩具会社、倉持商店の次女として生まれた。

なんでも鑑定団お宝情報局にも記述がある大手玩具会社である。今はそのブリキの玩具、相当なお宝である。最盛期の戦前は国に飛行機を寄贈したこともあるくらいの規模だった。食糧に困窮した戦時中でさえバターが茶箱一杯あった。戦後の家は目白の富士見坂下にあった二十数室の豪邸。今は大きなマンションが建つ。ちなみに母の父で会社はしばらくもったが、長女の婿養子で傾いて倒産した。

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母は戦後に大学に入り直し、慶応幼稚舎の体育の先生になった。後に有名になった大スターも教えた。だから結婚も遅かった。何の因果か、お見合いで田舎者(父)と結婚した。むしろ父よりずっとダンディな父の弟に惹かれていたのは、何度も聞かされた。父は専門学校卒で、大きな電力会社に入社したものの、技術者として関東の発電所を転々。ぼくが生まれた後、電力会社の笹塚にある小さな社宅に移った。

その境遇をどう感じていたのだろうか。

父もまた「お嬢さんをもらっちまって」という嘆きと、「ちくしょう」というコンプレックスがあったはずだ。都内にムリして家を買い、困窮した。なんとかそれを乗りこえたが、父に“隠し子”が見つかった。結婚前のことだからとはいえ…。

あたしはそんなこと、ちぃとも気にしない。江戸っ子だから

さっぱりしたところが、兄やぼくの友人たちが慕うところだった。その代わりなのか、やりたいことはやっていた。

子供が小中学校を卒業するまでママさんバレーボール。区の大会によく見学にかり出された。子が卒業した後は、ふと飼いだしたヨークシャテリアがきっかけになって、ペットのお店で無償でトリマー修行をしてから資格もとり、自宅で犬のシャンプーとカットを開業した。珍しい犬のブリーダーもした。それは長らく続いたが、最後の飼い犬が死んで、終わった。

肺がんを患って手術や検査で入退院した。由緒ある杏雲堂病院や、スターや政治家が入る山王病院の費用で、実家と父の残した資産を食いつぶした。根はお嬢さんだったのだろう。

改めてどんな母親、いや人間だったのだろうか。

家庭人というより、何かをしたかった人。考えているより動く人。もうすこしアグレッシブさがあって、世が世ならば、経営者の方が向いていた。ぼくが獣医でも目指すと言えば、変わっていたかもしれない。

ここ数日かけてある医師の半生を“ドラマチック”に書いていたが、それに比べると、事実の列記になってしまった。まあそっちは仕事だから許せ。いずれ二、三の短篇小説にくるりと仕立てる覚え書きにするので。


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