国語+英語=会話

ある著名大学の教授は三十才頃米国留学をした。一年目はまったく会話が上達せず、二年目は少し。しかしブレークスルーは違うところからやってきた。

「日本語で講義ができるようになって英語が上手くなりました」

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留学先は世界第一級の研究所。世界から研究者が集まり公用語は英語。ただ彼には喋る内容がないかった。やがて研究で論文を書き、臨床研究をして、講義をするようになってから、喋れるようになってきた。今では1時間でも英語で語れる。

思い当たるフシがある。

ぼくの時代の英語は文法や構文主義で、ヘンテコな発音記号を覚えて、教科書を素読するのが関の山。会話のカケラもなかった。今はいい。小学生から英語に親しもう、大きな声で挨拶しよう…賛否はあっても英語はツールなのだからそれは正しい。だがここには語学教育の根本問題が潜んでいる。

挨拶は大切だけど、ハーイジェフ、ハーイサブローでいい。大切なのは自分の考えの伝達である。米国にミニ駐在したぼくも上手くならなかった(未だに上手くない)。働いた場にはおしゃべりスーザンや、惚れたリンがいた。You Fuckin’!と言われたジェニー(仮名)もいた。英語学校もいき単語カードやリスニングもやった。でも上達しない。なぜだろうと考えてハタと気づいた。

そもそも喋れることがなかったのだ。

文化、仕事、暮らし、趣味、好きな女…語れるほど深い知識がない。主張がない。説き伏せる熱意もないときてる。日本語がそのアリサマでは英語が上達しっこない。日本語が上達してきたのは、ぼくは「書く」ようになってからだ。社内の掲示板に文を書き、ブログを書き、やがて連載を持つようになって、喋りも上手くなった(と言われた)。英語の上達はしないが態度だけは堂々としてきた。

小学生だって同じだ。喋ることがあるのか、コンテンツがあるのか。

ぼくなら子供をこう教えたい。I like、I love、I hateナニナニ。好きなこと、きらいなことを喋らせる。ただ喋る前に日本語で作文をさせる。その上で個人発表とみんなで質疑応答をする。挨拶やシーン会話を繰り返してもだめだから。

そこまで考えてハタと国語教育にぶつかった。

文を分解し、素読をさせ、漢字を学ぶ。あれ…喋らせていない、書かせていない、考えさせていない。実は国語が問題なのではないか。「会話」という学習時間をつくるのが早道なのではないか。

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