友を待つ。

子供の頃、遊び場というと“あそこかあそこ”という場所があった。ぼくのは公園や墓地、神社である。メンツは違っても、そこに行けば遊び友だちがいた。大人になった今、それと似たような場所がある。

Facebookである。

パソコンやスマフォの電源を入れると「そこにいる」。電源を落とせば「じゃあね!」。子供が集まる広場みたいなものだ。だが子供はケンカをしても二、三日するとまたやって来るが、大人は待っていても来ないときもある。

Facebookでのこと。ある大人がハブになっていた。いろんな人を結びつけていた。ある日ある事で(そのナカミはよく知らない)、そのハブの大人がいなくなった。帰ってこない。グループやスレッドが宙ぶらりんになり、他の大人たちも来なくなった。ぼくはそのうち来るかな、まさかヒッキーになったんじゃねえだろうな…と思っているが、他の大人たちは次々とグループから降りていった。まあ仕方ないことだ。

リアルの友だち付き合いでも、似たことがある。

仲が良かったのに、学校が変わったら会わなくなった。引っ越したらさようなら。会社に入って忙しくて連絡も取らなくなる。自然に色が褪せていく友人たち。会う理由も消えてしまった友人たち。

でもぼくは、会わなくなっても、友だちは友だちなのだと思う。

小学校時代も中学校時代も、高校時代も大学時代も、会社時代も、転職したからそれぞれの会社時代に、友だちがいた。だけどその多くの人びとと付き合っていない。無精だからもあるし、ある意味でシャイだからでもある。昔の自分が好きになれないとか、その時と考えが変わってしまったから…などがその理由。

でも今付き合っていないからといって、友だちじゃないとはいえない。なぜって、友だちはずっと<心の中のそこ>にいるからだ。

だからぼくはFacebookでも、<スレッド>や<グループ>から出ないで、ぶらぶらしている。そこにいるのはタダだし時間の負担も少ないし、ひょっとしたら、ハブがふらりとやって来るかもしれないのだ。ましてそのグループには別に主役級の人もいる。だからぶらぶらしている。

Facebookには死んだ友だちもいるが、消さないでまだ友だちでいる。

なぜなら、他の人から偲ぶコメントが入るかもしれない。実際にぼくはある絵描きを偲んでコメントを入れた。するとその人の友だちが<ふわり>と集う。ぶらぶらしていれば、<空>から声が降ってくるかもしれないのだ。

Rolling-Stones-Waiting-On-A-Frie-119774


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