父と子が交わすことば

父は峻厳もスケベもコミカルも演じる役者の中の役者。子は迫真の熱血漢も、語り尽くせぬ心の陰も演じる名優。だがその演技よりも父と子という“役回り”がズンときた。

kouichi sato

三國連太郎と佐藤浩市、「死に目に会えなかった」「悲しいなという思いはなかった」という記者会見での息子の言葉から、ふたりの仲が悪かったとワイドショー的に断ずるんじゃ浅すぎる。自分に父がいればそうでないのがわかる。自分が父であればそうでないのがわかる。

父との思い出を問われて、佐藤は早稲田駅のホームでのことを語った。

この世界(俳優)をやると告げたのが早稲田大学の頃で、その意味合いはいろんな受け止め方ができたはずですが、父は「そうか」とひとこと言って電車に乗っていきました。

父と同じ演技の世界へゆくー。佐藤は“意味合いはいろいろな受け止め方がある”と言った。ここが深い。三國はうれしかったのだろうか。やりがいも汚いこともある世界へゆくのは止めろと忠告したかったのか。オレのコネに頼らずひとりでやってみせろと突き放したかったのか。三國がどんな顔をしたのか佐藤は語らないが、きっと何も悟らせない顔をした。それが「そうか」。それが父というものだと思う。佐藤はさらに言った。

僕と彼の間にあったのは、介在したのは役者という言葉だけ。その中で語ることはできるけど…

佐藤は幸せだ。語ることばがひとつあった。三國は佐藤の映画やドラマをチラチラと観ていた。語らずとも熱演を心で知っていた。

ぼくは父が会社で何をしていたか正確に知らなかった。橋梁や水力ダムの図面を見せてもらっても(父は東電の土木技師だった)チンプンカンプン。三國と佐藤のようにひとつの世界をつつき合うことはなかった。

父とのコミュニケーションは、今思えば株式投資や経済のことばかりで、それも断片的だった。奨められて始めた株式投資は性に合わなかった。経済を観ることは少しできるようになった。3度した転職でも仕事の中身でも相談することもほとんどなかった。つまり接点がほとんどなかった。

会話ができそうなのは本くらいだった。父は文系の人だったが、戦争時局のために土木系に進んだ。その反動だろうか、読書はたんとした。文学も推理小説も経済もなんでもござれ。奨められて読んだ本は幾冊もあったが、歴史本にだけは関心がもてず、死後十年近く経って開いたカビくさい『宮本武蔵』で、初めて対話できたような気がした。

佐藤もどんな父でしたか?と問われてこう答えていた

ひどいよ、そりゃ(笑)。世間一般の父親のような会話はできなかった。

三國と太地喜和子、どこも同じだ(笑)。女のことでもぼくを咎める前のオマエ(父)はどうなんだと言いたかった。そういうナマな会話は遂にできなかった。自分という父親もきっと因果は巡る。父と子とは遠くの方で無言でつながるものなのだろう。


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