ライ麦畑で死ねるだろうか

明日が成人の日だからっていうのは全くないんだけど、永遠にオトナになれないコドモに捧げられた一冊を読み返した。『ライ麦畑でつかまえて

salinger

先日無性に読みたくなって本屋に駆け込んだ。奥付には2012年8月112刷とあって、初刷は1984年、ぼくが社会人になった年だ。もっともぼくが初めて読んだのはそれよりずっと前の1975年頃だった。その本はどうしたかっていうと、ある女の子に「読めよ」と貸したあとフラれて結局戻ってこなかった。きっとすぐ捨てただろうな。あらかじめ文が話し言葉になるのを許してくれたまえ。この本読んだ後は誰でも3000日は話し言葉文から逃れられなくなるんだから。さらりと言うとぼくはJ.D.サリンジャーの全作品を英語で読んだんだ。ところがさっき本棚のどこを探しても『The Catcher in the Rye』も『Franny and Zooey』も出てきやしない。“大工よ屋根の梁を高く上げよ”の英語本だけみつかった。やっぱりライ麦畑は遠くなっちまったのか…。

でもね、何十年かぶりでホールデン•コールフィールドと会ったけど、拍子抜けするほど彼の気持ちがわかるんだな。彼がインチキな大人やそのエゴ、スノッブなコドモを嫌うのがよくわかる。教科書を閉じたくなるのもわかる。イジメられて自殺した同級生を思う気持ちもわかる。放校された学校の先生達にイライラしながらも慕うのもわかる。娼婦を目の前にして「したくなくなる」のは、実はぼくも同じ経験がある。あれは苦かった。放校されたホールデンがスーツケースひとつで移動するのが「家なんてない」という暗喩もわかる。1ドルで買った真っ赤なベレー帽をかむり、その実、16歳にして、白髪がたくさんあるという意味もわかる。NYの中央公園の家鴨が<寒くなるとどこにゆくか>彼が本気で悩むのもわかる。ライ麦畑で遊んでいる子供達が、崖から落ちそうになるのを「捕まえて助ける」という主題もズ〜ンとわかる。最初に読んだときよりずっとわかる。

問題はそこだ。わかる方がいいのか、わからない方がいいのか。

強がりも若づくりもしていない。大人社会に入って<大人ぽいこと>はたくさんしでかしてきた。裏切り妬みもした。でも心の底から<大人ぽく>はなりきれなかった。信じなくてもいいけれど、ぼくという人間は、バスケットボールの“ピポットターン”のように、片足は<大人社会>にのばしても、軸足はずっと<そこに>あったような気がする。コドモオトナできちまった、それが正直なところだ。もっとも「イノセントに生きたい」なんて口に出した瞬間、イノセントは吹っ飛ぶ。零下40度の北国にいるとしよう。分厚い氷に閉ざされた湖面に穴を開けて魚を釣り上げる。上げた時はピチピチ生きている。だが寒気に触れたとたん、カチカチに凍る魚、それがイノセントってものだ。明日の成人の日は大荒れだっていうけれど、大人になるってのは、イノセントを吹き飛ばすか、あるいはそれに吹き飛ばされるか、どちらかなのかもしれないな。

もうひとつ問題は、わかったからってどうなんだろう。

ぼくは“ライ麦畑の捕手”になれるのだろうか?ホールデンの弟アリーは14歳くらいで白血病で死んだ。イノセントのままに死ねたんだ。だから彼の持っていたキャッチャーミットこそ「ライ麦畑の捕手」のものである。捕手になれなきゃ、せめてライ麦畑で死ねるだろうか?永遠の青春小説は実に残酷なことを突きつけてくる。

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