『名文を書かない文章講座』から触発されて(3)

村田喜代子さんのお勧めに従って名文を書き写しをした。たかだか700字だがこれが侮れなかった。『名文を書かない文章講座』にある文章トレーニングを実践すると、名文の緻密さがわかったばかりか手が言葉をとりもどした。

言葉と女性美にだけは凝り性なぼくは、書き写しノートから自作した。美篶堂さんに教わった手製本づくり。升目の下敷きが透ける薄手の紙を使ったA5ノートである。たっぷり名文を学ぶぞ。写したのは柳田國男の『山に埋もれたる人生あること』。この文に筆舌しがたい衝撃を受けたから。

【山に埋もれた記憶の話】
山里に住む貧しい炭焼きが子殺しをする話だ。片面200字詰め3頁半に、人間が背負うには余りにも重い内容である。全体は四つのパートに分かれ、記録者の第三者視点で書かれる。リードとなる地文では、大きな視点から日本の山里の苦しい事情と殺しの結末を簡潔に語る。

本文の地文(1)は子供が飢えてどうしようもない日々を書く。地文(2)では読者の心に向かって切り込んでくる殺しの情景を淡々と書く。村田さんが指摘するように一文だけ「描写文」がある。「目がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた」 夕日という切なさ、それが親爺の顔を照らす熱さ。この一文がその次に来る悲劇を圧縮している。地文(3)では子殺しのその後の話を語る。

【文章構造の緻密さ】
四パートは起承転結構造がある。山を日本列島から見下ろし、山に降りて貧しい実情を見せ、子供が自分達を殺してくれという人間苦を突きつけ、それは実はどこの山に埋もれた話なのだと〆る。

終わりの「あの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつつある」の文に到達した時、書きだしの「今では記憶してる者が、私の外には一人もあるまい」を思い出させ、これが一貫して山に埋もれた記憶の話だと悟らせる。鮮やかである。

しかも注意深く読むと、四パートそれぞれの段落にも起承転結が見える。起承転結が入れ子構造になっているのだ。そうやって文は書くものか…。

【言葉を思いだした】
たった700字書いただけでも手書きの効用はあった。名文の緻密さがわかった。自分は一体今まで何を書いた「つもり」になっていたのだろう?猛省あるのみ。

内容分析以外にも効用があった。自分の鉛筆の音が静寂の中で際立っていた。もちろん実際にはいろいろな音があるが、書き写すことで心に静寂が生まれた。キーボードで失っていたことを思い出した。言葉である。手が言葉をとりもどした。書くということはこれだった。


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