100歩遅れの読書術 『海を渡る日本現代美術』光山清子さん著

またしても100歩遅れの読書です。『海を渡る日本現代美術』(勁草書房)。時間がかかったのは2度読みしたからもあるし、噛み締めたかったからもある。誰かのツィートに「読書量と収入は正の相関関係がある」とあった。ああ、なるほどぼくは遅読だから貧乏なのか。でもそれが正しければ読書家はみんな金持ちだ。そんな感じはしないけどね。

余談はともかく、自分なりの“戦後日本アートの海外進出”の感想。

1945年から1995年までに欧米で開催された主要な日本現代美術の展覧会を丹念にたどり、日本現代美術をめぐるアイデンティティの問題を中心に、欧米での日本現代美術に対する評価とその基準、受容のされ方とその反響を析出。日本現代美術が国際社会へ進出する中で求められたのは何だったのか、日本の美術とは何か、その本質に迫る。引用元

第1章 日本人前衛作家への国際評価(1945年〜69年)

この章では戦後日本の美術界が、ヴェネチア・ビエンナーレを中心に国際アピールに試行錯誤する姿をビビッドに描いている。“日本的なるもの”を寄せ集めた“バザール展示”が評価されず、欧州の美術トレンドと外れた“独自の作品展示”がスカを食らう様子が興味深い。

その中で明らかになったのは“日本画対日本の洋画という対立”であった。世界からはそれがとても奇異に映った。続いてニューヨークのMOMA展での様子を引用。

(MOMA展を担当したニューヨーク近代美術館のウィリアム・S・リーバーマンは)日本美術の最も本質的な特徴を、六世紀半ばの仏教の受容に始まるような外国からの影響への順応性であるとし、次のように述べている。
「その時代から現在に至るまで、日本文化は外部との接触で養われてきた。このような外国からの影響が持つ刺激を受けて、日本は異なる形態や手法を取り入れ、それらを自らの刻印が押された伝統にまで成熟させた。それらの源から十分に引き離し、まさに日本固有のものに違いないと思わせるまでに徐々に消化したのである」 P70

日本美術の本質、いや日本文化の本質をかなり深く突いている。

第2章 ジャパン・アート・フェスティバル(66年〜76年)

続いて通産省主導による“JAF展”、ジャパン・アート・フェスティバルを取りあげる。11カ国34都市を巡回したこの展示では、日本現代美術が包括的に海外に紹介された。

当初は工芸や版画、日本洋画の大家の作品を中心に、やがて公募制も取り入れられて幅を広げたJAF展でも、工芸と美術、日本と西洋、現代と前近代という二項対立現象が明らかになった。

針生一郎だけが、第七回および第十回JAF展のカタログに寄せた論文の中で、この問題(伝統美学と西洋化)に論及している。彼の観察によれば、日本の今を生きる作家にとって、より重要なことは、伝統的なものよりも現代的なものであり、能、茶道、庭園、浮世絵に見られるようなすでに確立した伝統美学の中ではなく、むしろ伝統とは遠い現代の日常生活の中に自分たち独自のユニークな美的感性を発見する方を彼らは好むという。P123

模倣を吸収しつつも、まだ生々しさを漂わせ、日本的なるものまで昇華しきれていない芸術は、西洋の亜流と見なされてきた。独自の感性がないとダメだというのだ。

第3章 欧米で高まる日本現代美術への関心 (80年〜95年)

80年代の特徴は、バブル崩壊に至るまでの商業ギャラリーの活性である。百貨店や企業がパトロンになり、前衛作家の発表の場が生まれた。その中でも『アゲインスト・ネーチャー展』(1989年)について本書は詳述する。日米のキュレーターが企画したこの展示会の座談会のくだりが重要だ。

つねづね私(南條史生)は日本には常に二つの対照的な美意識があったのではないかと思ってます。一つは禅や神道と関連して見られている、黒と白だけで色彩を用いず、装飾を廃した非常に地味な、ミニマルな美的感性です。これは武士階級や知的階級に属するものでしょう。もう一方の伝統は商人階級など都市に住む一般の人びとのもので、こちらは装飾的で、色彩感覚に溢れ、鳥や花の姿など季節のイメージをふんだんにあしらったものです。P191

日本人にはこうした二つの好みが併存してきたという。確かに美学と言えば、“構造美の日本庭園”をひと言も語らずに浸る“花鳥風月の世界”を賑やかに川柳で詠う、どちらもあるだろう。日本人は両方ともわかろうとしてきた。二つの対立をしなやかに受けとめるのが日本的とも言えるのだ。


そして90年以降の現代美術に、日本的なるものを昇華させる現代美術を紹介する。國安孝昌氏のインスタレーションは、コンセプトからガチガチ考える西洋型ではなく、自然の中で活かされている自分を無意識なアートとして表現している。次は國安氏のことば。

作品を作るということは、ある構想を最初に持つ訳だけど、その構想というのは、言ってみればエゴと言っていいと思うんです。そしてそれは意識から発想されている。制作する中で、それは必ずしも最初の構想通りにならなくて、むしろ、最初の構想から離れた形になってきた時の方が成功していることが多いんですね。(中略)それが自分自身の深い自己と出会う方法であり、この作品のなっているのです。217

【ひとこと感想】
「日本文化が本質的にかけあわせの文化」であるゆえに、“文化的分裂症”に陥らずに、いかにオリジナリティを獲得していくか、宿命だが大切だと思う。

でも70年代以降の生まれの“日本人洋画家”は、洋画を洋画という意識で観る人は少ないだろう。オイルもアクリルも絵筆のひとつに過ぎないかも知れない。だがデザインかアートか、という対立軸だけとっても、自分はどっちでいきたいのか?考えると思うのだ。

そして海外に出ると否応なく「何を描くか」「なぜ描くのか」「どのことばで描くのか」と問いつめられる。自分のアイデンティティをどこに置くか、ことばにするかしないか別としても考えておかなくちゃならない。結局、アートとは自分に出会う体験なのだから。

内容は深いのですが、研究者らしいかっちりした文章の本なので、クリエイターが読むとは思えないのが残念です。

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