痴人の芸

人を感動させるsomethingとは「器である」と昨日のエントリーに書いた。器とはなんだろうか。

器は“器量”と言い換えることができる。すなわち才能であり、心の広さ、寛容さとも言える。

待てよ。ある歌い手がぼくに鳥肌を立たせた「」はなんだろう。才能か?それはある。でも心の広さ?…寛容さ?…ちょっと違うな。そもそもアートとは「人の良さ」に起因するもんじゃないので。

では器とは何か?と…わかっているようでわかっていないので、解いてゆこう。

陳腐な言い回しだが「芸のこやし」という言葉がある。役者の芸とは稽古だけできるものではない。役者の生きざまが反映される。「女遊びは芸のこやし」とは、その体験が演技をリアルにするという意味である。お行儀よくては役者になれんと。

ちょうど文豪谷崎潤一郎の手紙のニュースがあった。

Tanizaki_Matsuko_and_Emiko

文豪は最初の妻と別れそれを佐藤春夫に譲り、再婚したものの松子に惚れた。運命の恋だった。遂に同居を始め結婚した。結婚までに文豪と松子が交わした手紙が200数十通あった。画像右が松子、左はその子、円が文豪である

あなた様の夢をあけ方覚めるまで見つゞけました」(松子から谷崎宛て、1928年12月30日)
何卒(なにとぞ)御側(そば)に御召使くだされ候」(谷崎から松子宛て、1933年5月20日)

しもべ!(^^)いいですねえ。彼は激情の人であり、世間体を省みず我が欲情を貫いた。文豪だからできたって?それは違う。愛に溺れる痴人だからこそ、文豪になれた。文のテーマを技で書かず、血で書いたのだ。

つまり芸には二つある。まず稽古で高まる芸である。これは“プロの安定”である。もうひとつは我が身の不幸や幸福、罪と罰の体験で深まる芸である。これは“ドキドキ”である。この二つが芸を成立させている。どちらかが欠けたら、鳥肌が立つ感動はない。

器とは、この二つを高めてできる風格である。

ひとつ注意すべし。「ぼくはこんな体験をした、凄いだろ」では感動しない。自分の体験を普遍化し、「ああ!こんな平凡なオレにも激情がある」と、聴き手や読み手の<隠された本能>を直撃するから感動が生まれるのだ。

自分のこやしを人類のこやしに変える技ーそれがプロの技である。

ぼくも愛する人のしもべになりたい。焔の恋で死にたい。リトル谷崎になりますぞ(^^)

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「器もバナナも大きい方がいい」そうですねえ…(^^:)

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